いらっしゃいませ

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2021年12月 9日 (木)

ガウンの話

 押し入れの奥底でガウンを発見しました。亡くなった親戚宅にあったもので未使用だったので家に持ち帰り、母が使わないというのでしまい込んでそのまま行方知れずになっていたものです。
「ああ、ここにあったんだ」

 起きたら即戦闘だった介護時代、私にはガウンを着る時などありませんでした。でも今は違います。これを着て湯上がりにゆったりまったり映画でもみたらどんなに楽しいだろう。
そう考えた瞬間、私は後先考えずガウンをひっつかみ洗濯機に放り込みました。一度洗った記憶はあるのですが数年間押し入れの底にあったので使うなら洗濯は必至です。
その日は寒く洗濯物の乾きにくい日でした。私も具合が悪く倒れそうでした。
それでも頑張って信じられない程重くて嵩張るガウンを洗濯し干し、乾ききらないのを室内で場所を移動させながら乾かしました。
苦労の甲斐あって夜にはちゃんと乾きました。これなら今夜から使える!
私はそそくさと晩ごはんを掻き込み大慌てでお風呂に入って、パジャマの上からガウンを羽織りました。これからがゴールデンタイム~♪
しかしガウンは寒かった。
あんなに嵩張っていたのに思っていた程暖かくない。しかも膝丈なので足が寒い。膝掛けを脛の周りにぐるぐる巻きにしても寒くていられない。
それでも「ゆったりまったりな宵」を楽しむべく、格闘すること15分。このままでは風邪を引きそうだったので、やむなく布団に撤退することになりました。
まだ午後830分でした。(号泣)

2021年5月 5日 (水)

カフェオレの話

  去年の5月、私は指の手術をしました。手術と言っても手のひらに1センチほどの切り傷が二箇所できるだけの、部分麻酔で小一時間ほどで済むものでした。でも傷口にパッドを当て包帯でぐるぐる巻きにするため、看護師さんから「運転はできなくなりますから当日は車では来ないで下さい」と言われ、5月の午後、包帯ぐるぐるの左手を抱え、電車の時間の30分以上前に最寄り駅にたどりついたのです。これぞ私の狙っていたことでした。
思い起こせば210ヶ月前の20177月、朝高熱を出し動けなくなった母が私が手術した病院に救急搬送。一緒に乗せられてきた私は家に入院荷物を取りに行くためにこの駅に来たのでした。時間も同じ午後3時頃、電車の時間まで少し間があり、バタバタしていた私は朝から飲まず食わず。駅前にはカフェ。私はテラス席に腰を下ろしました。疲れていたのか寒気がした私は真夏なのに温かい飲み物が欲しくてカフェオレを注文しました。目の前に運ばれてきたそれはコーヒーとミルクの良い香り。小さく息を吐いて一口すすろうとしたその瞬間、駅にいた乗客達が一斉に改札を通ってホームに出る姿が見えるではないですか!え?うそ!もう来たの?と混乱しながらも、これは私も行かなきゃと、カフェオレをグビッとのんだところ熱い。

熱すぎる。

体が冷えていたのか喉の奥まで焼き尽くされる様な熱さでとても一気には飲めません。

荷物をまとめて車で戻らなければならない私には乗り遅れる選択肢はありません。涙を呑んでカフェオレを諦めお勘定をして駅に走りました。ホームに辿り着いた私の目の前にやって来たのは反対車線の電車でした。

それから15分以上、既に捨てられカップも洗われてしまったであろうカフェオレのことを考えながら私は乗るべき電車の到着をまったのです。


  あの時のリベンジを果たすときが遂にやってきたのです。キップは往復を購入済み。急な事で電車の時刻もしっかり頭に入っていなかった前回の轍を踏まないために時刻表もばっちり確認済み。余裕をもって店に入り、堂々と注文したカフェオレ。
うっとりと微笑み口に含んでふと顔を上げると、店内の時計は発車時刻の14分前。店に入ったときは35分前だったのにいつの間に?
大丈夫だ落ち着け。14分あればカフェオレ一杯くらい飲み干せる。そう考えて呼吸を整えグビッと飲めば
熱い。どうしてこんなに熱く感じるのか、とても簡単に飲める温度ではありません。

何故?どうして?と混乱した上に熱くて味もよく判らないカフェオレを、飲み干せたのかどうかさえはっきり覚えていない状態で私は家に帰ったのです。
なんなの?どうしてこうなるの?どこで20分も経ってしまったの?


  白状しますと最初のカフェオレから次のカフェオレの間に、あのお店にはリベンジの為に2回行ったのです。でも1回目はほうじ茶とおやきセット、2度目は玄米カレーを食べてしまい、カフェオレリベンジを果たせないままだったのです。今度こそ達成できると思ったのに。
あれ以来あのお店に行かないまま1年が経とうとしています。
食い気に惑わされた私はカフェオレをゆっくり味わうという野望は捨てた方がいいかもと思い始めているこの頃です。

2020年12月31日 (木)

桜の話

 まさかこんなに大変な年になるとは夢にも思わなかった2020年。そんな今年の最後には美しい事を書きたいと思います。

 四月のある日、私は疲れ果ててぼんやりしながら車で道を走っていました。前を走るのはかなり大型のバンボディ(荷台が箱形コンテナみたいなやつです)のトラック。その後ろをそろそろ走っていたところ、突然、本当に突然、まるで雪崩にでもあったかのように何かが上から降り注いできて目の前が真っ白になりました。
びっくりして思わず急ブレーキを踏もうと思ったその瞬間、宙に浮かんだ白い物がひらひらと踊り、舞い上がり始めたのです。それは沢山の桜の花びらでした。
今度はこの場に留まりたい衝動に駆られて思わず急ブレーキを踏みそうになりましたが、さすがにそれは思いとどまり、宙に舞う花びらの中をしずしずと進みました。この頃には何が起こったのか見当が付いてきました。前を走る大型トラックの荷台天辺が道端の桜の枝を擦ったのでしょう。桜の木はさぞや痛かっただろうと思いながらひらひらと踊っているような桜花の乱舞を通り過ぎ、交差点の信号で暫し停止しました。
バケツをひっくり返したような雨という表現がありますが、あの花びらはバケツをひっくり返した様に降り注いできたのです。
その後信号が青になりトラックが動き出した瞬間、また花びらが降ってきました。枝を擦ったトラックの天井に桜の花びらが残っていたのでしょう。それが最後の花びらだと思ったのですが、トラックが揺れる度にはらはらと桜の花びらが降ってくるのです。それから数分間、私が右折するまで、ずっと桜の花びらが降り注ぎ、目の前をひらひらと舞い踊ってくれました。

 何の変哲もない道路の風景なのに、花びらが空から舞い降りてくるだけでどこか別世界の様な光景に思えるのが不思議でした。桜の木は痛かったと思いますが、夢の様な体験でした。右折するときは名残惜しかったです。

 前を走る大型トラックとの別れがこんなに辛く感じることがあるなどと思いもしませんでした。トラックから降ってくるものと言えば大体は雪か氷。それから砂というのがありました。あれは本当に勘弁して欲しかったです。後ろの車が状況を読めてなくて、私が車間を開けると煽るんですよ。砂がばさばさ落ちてくるのみえない?その後私は自分の車に砂がバチバチ当たる音を聞きながらトラックの文字通り後塵を拝して数十キロ走る羽目になったんです。あれが悪夢でなくてなんなんでしょう。

 忘れていた昔の出来事をつい思い出してしまいましたが、トラックからは素敵な物も降ってくることがあるという事を心に留めて、2020年を終えたいと思います。
皆様、良いお年を!

2020年11月24日 (火)

猫式ぬれた鼻の使い方


  これは前にどこかでお話したかもですが、うちの故猫ほっしい(アイコンの猫です)は色々発明というか発見をする猫でした。ある時、寒さでかじかんだぬれ鼻を私の顔に押しつけると飼い主はけいれんを起こしたように飛び起きるということを発見しました。勿論これは私の推測ですが。その時彼はこれは使える!と考えたのでしょう。それから毎朝、ほっしいはまるでハンコを押す様に濡れた鼻を私の顔に押しつけるようになりました。
 これは経験しないとわかってもらえないかもですが、寝ている顔に冷たい鼻を押しつけられるというのは、電気ショックのような衝撃が走ります。あまりの衝撃に一瞬息がとまります。これを朝の4時頃、毎日繰り返された時は、私は苦痛とショックと寝不足で倒れるんじゃないかと思いました。
しかし故猫は知らなかったかもですが、人間というのは慣れるものなのです。私は段々けいれんしたり飛び起きたりしなくなりました。ほっしいは鼻を何度も私に押しつけることになり、そうすると朱肉がなくなるように鼻は乾いて温かくなります。そんな鼻を押しつけられると飼い主の心地よい眠りを誘いさえします。
そこで彼は鼻先に水分と冷たさを取り戻すべく、鼻先をペロペロなめながら何周も疾走し、それによる風で鼻の温度を下げるという方法を採用しました。これは被った布団の隙間から私が目撃したので間違いありません。
しかし厳寒期ならともかく春が近づいて暖かくなってくると、段々鼻は冷えにくくなり、私は冷たい襲撃にもっと慣れて起きにくくなり、いつかこの労多くして実りすくないスタンプ作戦は沙汰止みとなりました。

 そこまで頑張って人間を叩き起こして朝食の用意をさせ、食べ残して寝てしまう、うちの故猫達は一体何をしたかったのかは未だに謎ですが、寒くなって自分の鼻が凍える季節になると、私は決まってこの話を思い出すのです。

2020年10月25日 (日)

家族Aのこと

 家族Aこと我が母は女学校時代が丁度戦中だったため、学校で音楽の時間がほとんど削られたそうで、本人曰く「習ってないからまったくわからない」との事でしたが、私が10代の頃クラシックのラジオ番組を聴いていると「これはこの前あの曲弾いていたあの人?」などと言って、ふらっとやってきたわりには演奏者名を当てていくことがよくありました。というか判ったときだけやってくるせいか外した記憶がほとんどなかったりします。 

それから母も私もあれこれ忙しくなり、途中で、ポゴレリッチのコンサートに一人で行くつもりだったのか!と私にくってかかって一緒に付いてきた揚げ句、自分だけポゴ師と握手するというトンデモ行為を挟んだりしましたが、全体としてあまり音楽を聴いている暇はないようでした。

 十数年前の手術の後からは、深夜ラジオを聴くようになり、そこで週一でクラシックを流す枠があるらしく毎週楽しみに聞いていたようでした。
ある朝、「夕べ流れた曲は絶対にアルゲリッチだと思うけど誰が弾いたかを聞きそびれた」というので、深夜枠にアルゲリッチ御大とかあるわけないでしょとせせら笑いながらネットで調べたところ大姐さんの演奏でらっしゃいました。
また「夕べは昔の人の演奏だっていうんだけど素晴らしくて、名前をしっかり覚えたつもりが寝て起きたら忘れてた。誰だかわかる?」というので調べたところ結構な名演奏家だったことが何度かありました(ヘンリック・シェリングもあった気がします。私がよく覚えてないのですが)

 

 そんなこんなでこの人結構聴く耳があるのではないか?とはずーっと思っていたのですが、去年の12月のとある夕暮れ、当時は茶の間に家族Aの介護ベッドを入れていたため殆どテレビを観ることが出来なかった私は、丁度母が寝ていたのでこれ幸いとスイッチを入れたのでした。今となっては何の番組か記憶がありませんが、ドキュメンタリーかなにかでその映像に合わせて歌が流れ、字幕に歌手名と曲名が示されました。それがなんとテレサ・ベルガンサだった為(多分スペインのドキュメンタリーだったのだと思います)私は思わず身を乗り出しました。歌が流れ出すと寝ていたはずの家族Aが起き出してきて身じろぎもせずに聴き入り、曲が終わった後私にこう聞いたのです。
「この素晴らしい声の持ち主はだれ?これを歌った人の名前はなんていうの?」
私は「これはスペインの至宝とまで言われた世紀のメゾソプラノ、テレサ・ベルガンサだよ」と答えながら、改めてこの人の聞き分け能力に恐れおののいたのでした。私がこの歌を素晴らしいと思ったのは誰が歌っているか知っていたからで、それを知らずにこんな反応は少なくとも私にはできる自信がありません。私はこの人の足元にも及ばないと改めて思った次第です。

 

 その後、家族Aは年明けにシフのベートーヴェン協奏曲全曲演奏放送の前半を聴いて涙を流したあと、滑って転んで骨折って、入院に手術、果ては車イスで自宅復帰できず病院からそのまま老人ホームにご厄介になり、8月にもう一度骨折してから一気に体が弱くなり、先日ついに帰らぬ人となりました。

 

 遺体が家に帰ってきてから、何か気に入る曲をかけてやろうとあれこれ試したのですがどれも今ひとつ納得できませんでした。しかし葬儀の朝、ふと思いついて前日に出来上がったお仏壇用の小さな写真をテレビの前に据え、奈良正暦寺福寿院客殿でのポゴレリッチの演奏録画を流しました。
最後の曲、シベリウスの「悲しきワルツ」が空に吸い込まれるような余韻を残して静かに終わったとき、出棺の時間となりました。

 

 生前の家族Aに対する皆様方のご声援ご心配、本当にありがとうございました。故人になりかわりまして御礼申し上げます。

 

 追記

葬儀の朝ポゴレリッチの録画を再生しようと考えつくほどの余裕を私に与えてくれた老人ホームのスタッフの皆様、ケアマネさん、病院のスタッフの皆様、困った時に助言を下さったお友達の皆様、本当にありがとうございます。 最期になりましたが御礼申し上げます。

 

2020年1月19日 (日)

謹賀新年と今年の初夢

  明けましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりました。本年もなにとぞよろしくお願いしますm(__)m

 

 ワタクシ、歳のせいか夢などあまり見なくなり、ここ数年は一年に一度見れば御の字という頻度でしかみることが出来ませんでした。それが今年のお正月は松が取れるかとれないか、というタイミングで夢を見ました。初夢です。その夢を皆様にご報告します。

 

 

 それは唐突に始まりました。

 

 気が付くと私は高野山の、昔いつもお世話になっていた宿坊JM院さんにいました。

 

「急いで下さい。もうすぐ飛行機が離陸します。皆さんもう空港にいらっしゃいますよ」

 

  と宿坊の方に言われ、「今来たばかりで奥の院のお参りもしてないのに、もう帰るの?」と私は慌てたのですが、そこは何故かすぐ納得して荷物をまとめようとしたところ、目の前には小さな巾着袋しかない!!!

そもそも私の荷物は去年ここへ来たときに忘れてそのままになっているらしいのです、夢の中では(高野山へは十数年行ってません)。

 

荷物を諦めれば飛行機に乗れる。

荷物を取りに行けば乗り遅れて飛行機代がパーになる。

 

この究極の選択に私の頭はフリーズしましたが、飛行機代>荷物だと決断して、巾着を握りしめ長い渡り廊下を駆け出しました。

 

JM院さんは大変由緒あるお寺で、玄関までの渡り廊下が長いのですが、夢の中の長さはその比ではありません。ひたすら続く長い渡り廊下を私は必死で走りました。

途中「ここを曲がれば荷物がある。この調子なら間に合うのではないか」と閃き(というか欲を出し)、廊下を右折して入った建物は、他のお客さんの荷物が山程積まれた部屋が幾つも連なっており、どこまで行ってもそれが続くので、そこで私は自分の荷物を諦める事にしました。もう仕方ありません。

廊下の突き当たりの角にいらしたお寺の方が走ってきた私に、

「○○を曲がると出口です」と声を掛けて下さったのに、○○が私には聞こえません。行き当たりばったりで左と右に曲がり、開けた、グラウンドのようなところを「お寺にグラウンドがあるのか?」と疑問に思いつつもひたすら走り続け、ふと気が付くと道路に出ていました。そこは道路脇にフェンスがずっと続き、フェンスの向こうには広大なグラウンド、更に遥向こうに鉄筋の校舎のような建物が見えます。さっきまでいたお寺がどこにあるのかもう分かりません。自分がどこにいるのかも分かりません。ただ私はこの道路をぐるっと回ればなんとかなるかもとと考えて走り出しました。タクシーに乗るのが正解だと思うのですが、巾着には198円しか入っていないことを私は知っているのです。

 

 どうやったものか、私は人が沢山いる狭い地下街のような場所を、こんなアーケード街昔は無かったのに、いつ出来たんだろうと思いながら、人を掻き分け走り続け、唐突に高野山駅のキップ売り場にたどり着きました。嘘みたい!飛行機に間に合った!!!

 

 しかしすぐには改札を通れません。私のチケットは先達さんが全員分を持っているので入場券を買わねばなりません。その値段を聞けば5円とのことなので、私は急ぐ余り全財産の198円を出しました。すると駅員さんは20枚近い入場券の束を出し、素早く日付のハンコを押し始めます。私は三枚目の直前でそれを制止し「一枚でいいんです!」と叫びましたが、駅員さんは「195円分です!」と譲ってくれません。暫しの押し問答の末、三枚だけ買っておつりをもらい、構内にはいりました。 

 

 高野山駅空港だけのことはあります。港内も地下街のようで通路が幾つもあり入り組んでいます。これでは時間内にゲートに到着できません。一度は絶望したのですが、その時一緒にお参りに来た人達が私を見つけ出して手を振ってくれたので私は大喜びでそちらに駆け出しました。方角は正しかったはずなのに、走っている時に一瞬忘れた荷物を取りに行きたいと思った瞬間、私は枝分かれした地下街に立っていました。

もうどこへ行けばいいのか、どの階段を登ればいいのか、198円弱でどうすればいいのか(浮き足立っているので正確な金額が頭に浮かばないのです)、途方に暮れたところで目が覚めました。

 

 夢から覚めて思うに、高野山には学校のグラウンドがあります。グラウンドと校舎の位置は逆になりますが、学校の位置は高野山大学だったみたいです。

地下街は、私の記憶にある南海電鉄難波駅から近鉄難波駅に向かう地下コンコースとよく似ていて(名古屋難波間は新幹線より近鉄を使う事が多かったのです)、高野山駅空港の中は近鉄難波駅構内と名古屋駅周辺の地下街が混じったような様相を呈していました。

でも高野山駅の窓口だけは、間違いなく私が行っていた頃の高野山駅のものでした。電車ではなく飛行機だったのは、私が前の晩寝る前に、読んでいた本に旅客機のことが出ていたからでしょう(規制緩和は運賃の値下げに繋がらなかったんですって)。

 198円入りの巾着を握りしめて、荷物という煩悩?に心を動かすと道に迷う、細部はリアルな夢を見た、私は2020年をどう生きて行けばいいのでしょうか。

 こんなワタクシですが、本年も皆様どうかよろしくお願いいたします。

 

P.S. 取り敢えずランニングの練習はしようと思いました。走行可能距離を10メートルから伸ばしたいです。

2019年12月31日 (火)

大晦日の虹

 今朝、洗濯物を干しにベランダに出てみたら虹が出ていました。わりとすぐ近くにはっきりと。雲に遮られて完全な弧を描いていたわけではありませんが、目の前に濡れたように輝いている大きな虹はとても美しいものでした。今年は私にとって大変な年でしたが、光る虹を観ていると「がんばったよね」と背中をポンポンと叩かれたような、そんな緊張が解けるような気がしました。しらず、笑顔になっていました。

『終わりよければ全てよし』

 そんな気持ちで明るく大晦日を過ごせそうでした。

 午後二時までは。


その後、

 ハプニングによる二度目の大物洗濯。

 ハプニングによるエクストラ買い出しドライブ&お店が既に年末休業で手ぶらで帰宅。

 ほとほと疲れ果ててお風呂に入って、「追い炊き」スイッチを押すつもりで「風呂自動」スイッチをオフしてしまい、湯量を増やして溺れるか(お湯を張った状態で自動スイッチを押すと湯量がかなり増えるタイプの給湯器なもので)、こまめに追い炊きをして、忘れた時には風邪を引くか、どちらにしようか悩み抜く羽目に陥りました。
結局追い炊きコースにしたのですが、その判断が正しかったかどうかも不安なまま、私は大変なことを思い出したのです。

 「田作り」を作るのを忘れていました。

 今年に限ってごまめを二袋も買ったのに・・・(涙)

 冷えゆくお湯の中で、気の抜けない2019年をしみじみかみしめたワタクシでした。

 さようなら今年。

 どちら様も良いお年をお迎え下さいませ。

追記

 お風呂から出た後、キッチンで椅子に躓いて転びそうになったことは、いつかよい思い出になるのでしょうか・・・・

2019年12月25日 (水)

Merry Christmas!!!

 ブログ更新を随分サボってしまいました。
その間色々あったのですが、なんとか生きていました。

しかし、先々週に家族Aが高熱を出し、すわ!入院か!と気を揉んだせいか、はたまた今までのイロイロ疲れが出たのか、先週後半からどっと体調を崩し、金曜午後からめまいで寝込んでしまったのでした。
この年末の忙しい時に・・・・(しくしく)

 寝込むのが3日にもなると買い置き食料も尽きかけてきますが、その時私の心は希望に燃えていました。明日の25日になれば、クリスマスになれば、生協さんが年末のご馳走を運んできてくれる♪

 そうです!自分の不調をしっかり認識していた私は、年末用ご馳走チラシから冷凍ローストビーフ他を11月のうちに早期申し込みで注文し、お届けを12月25日コースにしておいたのです。

 クリスマスになればごちそうがやってくる!
最悪年内にそれを食べてもいいし、何より年越し料理のプレッシャーから解放される!

 私、なんて準備が良いの?

 そして今日、愛と平和とご馳走が届くクリスマス♪

の、はずだったんですが、ローストビーフがない!というか伊達巻きと昆布巻き以外のご馳走がない!!!そんな馬鹿な!!!

 明細書を見ても項目がないんです。それで目の回る頭でつらつら考えたら、ローストビーフをクリスマス用とお節用の二つ注文しようか一つにしようか悩んだんですね。で、しばらく考えてみようかと、注文入力欄にあったローストビーフを0にして・・・ 

数を戻すの忘れたみたい。天は我を見捨てたか(号泣)

 
こんなワタクシですが、皆様には一年間大変お世話になりました。

 悲しすぎるので、来年まで寝込んで良いですか?(涙)

2019年9月12日 (木)

歴史修正主義者の戯言が31年前の国会で論破されていた件について

 タイトルは煽りです。
この国会答弁はかなり有名で重要なのですが、議事録が長くて読みにくいため、どなたか吉岡議員の歴史認識に関連する質問の全文と政府答弁だけわかりやすく抜きだしてくれないだろうかと長年思っておりました。しかし誰もやってくれないため、やむなく自分でやってみました。重要部分は太字で強調しておきました。
ブログデザインの関係で強調部分が読みにくくなってしまいましたが、お急ぎの方は太字部分だけ読んでも概要はお判りいただけるかと存じます。
なお、質問にある安倍幹事長は安倍晋三氏ではなく安倍晋太郎氏のことです。

質問している 吉岡 吉典 氏(1928年5月16日 - 2009年3月1日)は日本共産党の参議院議員です。

 

第112回国会 外務委員会 第10号
昭和六十三年五月二十四日(火曜日)
   午前十時二分開会
 

 
○吉岡吉典君 これはもうちょっと時間をかけて本当はやりたいんですけれども、先ほどもありましたように、きょうのこの委員会は今国会の最後の外務委員会ですから、私はどうしてもきょうもう一問やっておきたい点を大臣にお伺いしたいと思いますので、やむを得ずテーマを変えたいと思います。
 それは、今国会は私ここで二回も取り上げましたように、奥野発言というものをめぐって大臣の辞任という問題(下記参照のこと)が起こった点です。
 この大臣の辞任、奥野さんが辞任したということでこの問題は外交上の決着はついたということにもなっているわけですけれども、私はこれでは終わらない、これで終わらないからいろいろな問題が起こる。
つい最近も自民党の安倍幹事長が、奥野発言は間違っていない、これによれば、あれは中国、韓国対策及び野党対策でやめたんで、発言内容が間違っていたわけではない、こういう発言を行っている。私はここらあたりに今日の政府・自民党の平均的な認識があるのじゃないかと思いましたけれども、それをそのままほっておくことができないというところが今日の重大な局面だと思います。
 私は、なぜこういうことが起こったか。これまで二回問題にしてきましたけれども、きょうは別の面から、結局こういうことが起こる、また外国から日本への強い不信が、四十数年たってもまだ戦前の日本の侵略への不信が残っているのは、戦後四十数年間日本がきちっとした形で過去の他民族への植民地支配及び侵略戦争についての清算をしてこなかった、そこにあると私は思って幾つかお伺いしたいと思います。
 私は、戦後四十年間あるわけですが、幾つかの時期を振り返ってみて、どうしてもやる必要があったと思います。
 
 第一にポツダム宣言を受諾した際。この際、日本は、本来過去の植民地支配、侵略戦争の清算をすべきだったわけですが、当時はそういうことは全然やられない。当時の政治状況というのは、終戦時、国体護持が全力挙げての当時の支配層の関心だった。この時期のことは私はとりあえずは述べません。
 次の問題はサンフランシスコ講和会議、これが日本が過去を清算する必要のあるもう一つの重要な時期だったと思います。 
あの平和条約、安保条約については、私ここでも述べましたように我々は明確な見解を持っていますが、それはともかく、講和会議だと言うからには日本はやはり過去の決着をつけるべきだった。
 私は、かつて古本屋で百円で買った議事録ですけれども、
 
 外務省がまとめたサンフランシスコ会議議事録という本
 
をこれまでも何回も読み、今回も読み返してみました
これを読んで私が非常に改めて感じましたのは、
 
サンフランシスコ会議でアジア諸国が、幾つもの国が日本の侵略を厳しく糾弾する演説をやっている問題なんですね。
私、事前にこれに関連して質問するということも通告しておきましたので、
どういう国が日本の過去の侵略について厳しい批判を行ったか、外務省の方から述べていただきたいと思います。
 
 
○政府委員(斉藤邦彦君) サンフランシスコ講和会議の際に日本より被害を受けたと述べた国は、ラオス、カンボジア、インドネシア、フィリピン、ベトナム、オランダといった諸国であると承知しております。
 
 
○吉岡吉典君 私が読んだところではまだ幾つかありますけれども、数はいいわけです。
 これらの国の演説というのは、私が読んだ本によれば、事前にダレス特使がいろいろ圧力をかけたり、買収工作をやって本会議でこういう演説が行われないようにさんざん工作したにもかかわらず飛び出した発言で、当時の吉田首相は、ダレスの力も大したことないなと側近に語ったということまである本で書かれている。
 
 そういう状況の中での発言ですけれども、例えばインドネシアはこう言っていますね。「日本人による占領期間中にインドネシアが被った損害は二重であります。第一に、約四百万名の人命の損失があり第二には数十億ドルの物質的損害があります。」、こう言っています。四百万人が殺された。
 フィリピンの演説を読んでみますと、こう言っています。「千八百万の人口のうち、われわれは百万以上の生命を失いました。生命の損失の他にわが国民は未だに癒されない程深い精神的傷手を蒙りました。」後、続くわけですけれども、私は改めてこの議事緑を読んで、こういうことを日本国民にも知らせないできた。同時にサンフランシスコ平和会議の受諾演説で吉田首相はこういうアジア諸国の批判に答えてもいない。私はそうこの速記録を読みましたけれども、別の読み方なさっていますか、外務省どうですか。
 
○政府委員(斉藤邦彦君) ただいまの御質問が、当時の吉田総理犬住の受諾演説で、日本が侵略行為をやって近隣の国に被害をかけたということを直接言及したかどうかという御質問であったとすれば、受諾演説の中にはそういうくだりはなかったと承知しております。
 
○吉岡吉典君 ここが私は戦後の日本と諸外国との関係を考える場合に非常に大事な問題だと思います。
 
 講和会議で、今読み上げましたような百方人、四百万人が殺されたという演説があった。本当にアジア諸国のそういう声に耳を傾けようという姿勢で講和会議をやれば、私はそういう批判に一言ぐらいは少なくとも答えてあるのが当たり前じゃないかと思いますけれども、和解と信頼の条約だということでアメリカへの感謝の言葉はさんざん述べてありますけれども、これに答えることはなかった。戦後の講和会議での出発点、アジア諸国のそういう声を無視しての出発だったと、そこに私は今の問題がある。私は、今からでも講和会議のときにその声に答えなかったその答えを出すべきだと思います。それをやらないから教科書問題その他あらゆる発言のたびに問題が起こる。侵略の決着はつけられていないと思います。
 
 
 ついでにお伺いしますけれども、この日本の戦争のおかげで独立したと感謝を述べた国が一つぐらいありましたか。
 
○政府委員(斉藤邦彦君) そのような声明を行った国はなかったと承知しております。
 
○吉岡吉典君 よく中曽根さんがお書きになっている本の中でも、それから奥野さんも、結果として独立を与えたんだということを述べられております。しかし、私もこれ何回も読みましたけれども、
 
日本のおかげで独立したなどというのはサンフランシスコ会議に参加した国の中でもどこもありません。そういう発言というのがいかに根拠のないものかということを示していると思います。
 
 外務大臣、講和会議はこういう状況なんですね。それでよかったかどうか。私はアジア諸国に少なくとも何らかのことを言うべきだったと、吉田首相批判をやれというわけじゃありませんけれども、それから長い時期を経た今、アジア諸国といろいろな問題が起こっている時点でお考えにならないかどうか、大臣の意見をお伺いしたいと思います。
○国務大臣(宇野宗佑君) 吉田総理が献身の努力をなさいまして我が国の独立を確実にしていただきました。これは我々としては感謝しなくちゃいけません。同時に、昭和二十六年の一月に、第十回国会におきましては、吉田総理は次のように述べておられます。「正しき観念に欠くる軍備は、外に対しては侵略主義となり、内においては軍国主義政治となるのは、わが国最近の事実の経過に徴してはなはだ明らかなところであります」こうしたことで、吉田総理といたしましては、十年間にわたる無謀なる戦争による名状しかたい破壊と混乱の後始末をなし、そうしていろいろと本大戦に対する反省の言葉を述べておられます。
 同時に、私たちはその後、累次申し述べておりますが、アジアに対しましては常に経済大国日本は軍事大国にならないということを総理も宣明し、また私も明らかにいたしております。また、過般来申し上げておりまするとおり、特に戦後の後始末をいたしました日韓基本条約あるいはまた日中友好平和条約等におきましては常に反省の意をあらわしておるということでございますから、我々といたしましては今後もそうした気持ちを失うものではありません。
 
○吉岡吉典君 今その日韓条約に話が及びました。私は、サンフランシスコ平和会議に次いで日韓条約、このとき我々は、日韓条約については当時我々の理由を挙げて反対していますが、しかしともかくこれは日本と朝鮮、韓国との関係を清算すべき時期である、そういう時期になってしかるべきだと思いますが、それがならないできた。そこにいろいろなときに日韓の過去の植民地支配をめぐるトラブルが起こるもとだと思います。
 最大の問題は、私は四月の委員会でも述べましたけれども、日韓保護条約とか日韓併合条約が対等の立場で結ばれた、自主的に結んだ条約だという点ですね。私は前にも申し上げましたけれども、きょうも実は時間があれば、奥野さんは外国によって日本の歴史が書きかえられた、書きかえられるというから、そうではなく、事実に沿った歴史が描かれていないところに問題があるということを、日本のしかも公的な文献できちっとしたいと思って、実は日本の公文書あるいは公的立場にあった人の本もいろいろ持ってきましたけれども、それ一々紹介しているとここでもう時間がありませんから、一々述べません。
 日韓条約のときのそういう答弁、これは私は今なお朝鮮、韓国の人民を傷つける答弁だと思います。
明治九年の日韓修好条規に始まる一連の条約というのは、これは本当に当時の人々の書いた本によってもひどいことをやったんですね。
第一回目の最初の日本が韓国、朝鮮に押しつけた不平等条約である修好条規、明治九年ですけれども、
これは朝鮮総督府から出た本、戦前出た本ですけれども、この中で、アングロサクソン流の武力外交にならうものだったと。それで、アメリカから日本が不平等条約を押しつけられた、それを今度は逆に朝鮮に押しつけたということを詳しくお書きになっている。 
 
 それから、日韓保護条約がどういうふうにして結ばれたか。これは外務省の発表しているさまざまの文書の中にあります。私は、一つだけこれはぜひ読んでいただきたいと思いますけれども、保護条約のときの全権公使、林権助氏自身が書いた「わが七十年を語る」という本ですけれども、これを読んでみますと、伊藤博文と相談して大臣が逃げ出さないようはこういう手を打った、また韓国の判こが持ち逃げされないようにこういう手を打ったということがつぶさに書かれている。会談といいますけれども、外務省の例えば保護と併合という条約を読んでみても、伊藤博文が韓国の閣僚を集めて尋問しているわけですね。おまえ賛成か反対か、メンタルテストをやるように、おまえは反対だからおまえはそれじゃバツ、おまえは賛成、マルといってやったという状況がつぶさに当時の公式な立場にあった人々の本で書かれているわけですね。
 
 そういうことをやってきて結んだ条約、これが自由な立場で結ばれた条約だということは改めなければ、どんな言葉を吐いてもこれは本当の意味の日本と朝鮮との歴史の清算にはならないと思います。
 
 
 もう時間がありませんから、私ついでに述べさせてもらいますけれども、朝鮮併合後の問題で奥野さんは、韓国があれこれ言うのがようわからないとおっしゃっていましたけれども、日本が韓国でやったことについては、これまた外務省及び国会図書館に今はある本で、もういっぱい出ていますよ。これは三・一運動のときに現地から送られた電報が、今もうこんな本になって出ています。この原本は私は外務省にあると聞いていますけれども、こういうのは僕は少なくとも学術研究の対象にはしてもらいたいと思います。
これを読んでみると、驚くのはもう三・一運動のときに教会にみんなを集めて、それでみんな銃殺して焼き払った。しかし、こういうふうに公式に認めるとぐあいが悪いので、失火で焼けたということにしましたなどという手の内まで書いた電報があるわけですよね。
そういうことを日本はやってきた。そして、そういうのを暴徒呼ばわりでやってきたわけですね。そういう歴史を我々は隠しちゃならないと思います。
 
 私はここで、これも六五年の日韓国会でのそういう政府の答弁を変えるということを直ちに求めません。しかし、そのままでよかったということでは済まされないと思いますので、そういう見解について何らかの研究なり検討をやる用意はあるかどうかということだけはお伺いしておきたいと思います。
○政府委員(藤田公郎君) ただいま委員が種々御言及になりました研究書、それから過去の文献等々は、一部分は外務省で外交史料館において開示しているものもございますし、一部は国会図書館にだけしかないものもあると思いますが、
 
一九一〇年以前の日韓両国間のやりとり、応酬につきましては、日韓国交正常化交渉の過程におきまして、ただいま委員の御言及になりましたような立場、それから我が方の立場を踏まえましていろんな議論が行われたということはよく御高承のとおりでございます。
 
 その結果を踏まえまして、日韓基本関係条約第二条に記しておりますように、一九一〇年以前に日韓両国間で締結されたすべての条約及び協定は、日韓併合条約を含めまして「もはや無効である」ということを言っているわけでございまして、日本の立場というのはここに述べられているとおりということでございます。
 その後、いろいろの機会に、本院も含めましていろいろ応酬が行われておりますが、政府としましてはそのような立場で一貫して御説明をしているとおりでございます。
○吉岡吉典君 時間が来ましたから、私は今のでは満足できませんけれども、ここであれこれやろうとは思いません。
 日中についても、日中共同声明の際、国会で当時の田中総理は、中国に対して侵略だったということは私は言えないという答弁です、当時はね。しかし、今国会でいろいろ論議がありました。私は、これは日中共同声明の当時の田中首相の答弁、侵略だとは私は言えないという答弁を少なくとも発展させたものととっていいかどうか。この点、大臣。
 
 
○国務大臣(宇野宗佑君) 田中総理の発言はいざ知らず、私たちはやはり戦前の日本の行為が侵略だという世界的な非難、これに対しましては率直にそれを受けとめなければなりませんし、私自身ははっきりと軍国主義の侵略である、こういうふうに申しておりますから、私はそれでいいんじゃないか。私たちは現在そういう気持ちでおる、こういうふうに思っております。
 
○吉岡吉典君 私は、さらにこういう問題が起こることと関連して、教科書問題がこの数年間問題になっていますけれども、これについても結論として過去の侵略を否定したり覆い隠したりするような教科書をつくって教育したら、もう奥野さんのような日本国民ばかりできるようになると思います。そうなったら日本と世界との関係というのはこれは大変なことになる。
私は、戦後、中国を侵略した人々がつくった「侵略」という本ができたときに、かつて戦前の大臣も務められた風見章さんがお書きになって、これに序文を書いて、「日本民族が自らの歴史の中でおかした、このような罪悪に眼をつぶることは、ふたたび同じあやまちをくりかえすもとになるであろう。」と言って、日本が行った罪悪というものに我々は目をつぶらずに、はっきりさせることこそ大事だということをお書きになったことがある。私は日本国民の今後の教育にもこういう見地が必要だと思います。
 というのは、例えば教科書でも三・一連動というのについて、教科書改訂で、かつて集会と書いていたのを暴動と書くように改めている。こういうことではこれは日本の将来が大変なことになると。そういう点で、今度の国会というものを踏まえて外務省は、こういう過去の歴史、対外関係について日本政府全体に資料を提供して、正しい歴史認識を確立する中心になっていただきたいということを要望して終わります。

奥野氏は国土庁長官だった1988年5月、国会で「東京裁判は勝者が敗者に加えた懲罰だ」「あの当時、日本にはそういう(侵略の)意図はなかったと考えている」と発言して閣僚を辞任した。
東洋経済ネット「政治家の「失言の歴史」にも時代が表れている」


質問に出てくる外務省発行の「サンフランシスコ会議議事録」 にある各国日本非難発言は

「美しい壺日記」「サンフランシスコ講和会議にみる「アジア解放の戦争」という怪」の記事末尾に詳しく書かれています。

http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-127.html



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「慰安婦問題についての覚え書き」


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2019年4月 1日 (月)

ドアを替えたら風が止んだ話

 大変ご無沙汰をしております。いままでどうにかこうにか月イチ更新をしてまいりましたが、今年に入って力尽き、一月から丸二ヶ月以上更新することができませんでした。
もうほんと、大変だったんです(涙)

さて、今日はその大変だった話ではなく、去年の暮れにドアをリフォームした話を書きます。

 築数十年の木造家屋である我が家は、夏暑く冬寒い伝統的な日本の家です。
ことに玄関に繋がっている廊下の寒さは耐え難いもので、寒くて寒くて冬は涙目になりました。この寒さの原因は、北向で、アルミドアで(熱伝導率が良い)、上と両側に単層ガラスに縁取られた玄関に違いないと睨んでいたのですが、断熱診断をした訳ではないので確証はありませんでした。

 それでも手探りとはいえ、ガラス部分にプチプチシートを貼ったり、段ボールでガードを作って置いたり、上がり口に断熱ライナーを垂らしたりと、色々工夫してみました。それぞれ効果は確かにあるものの、それでも根源的な寒さを抑えることはできませんでした(涙)

 そんな時、ドアの上についているクローザーがおかしくなってきたのです。修理すると結構なお金(十万に近い金額でした)もかかるみたいで、それだけ掛けるなら、いっそ玄関リフォームしちゃえば?と血迷ってしまったわけです。

 玄関リフォームなんて十万の何倍かかるの?それより古家の改造なんてお馬鹿さんでは?って話ですが、疲れていたし、寒さにも耐えられなくなっていたんです、きっと。

 で、とんとん拍子に話を進め、去年の12月に玄関を丸ごと断熱玄関に交換してしまいました。

 結果は驚きの暖かさ!

なのですが、暖冬だったため、リフォームのおかげで暖かくなったとは言い切れない事を申し添えねばなりません。

 しかし目に見える大きな違いがありました。リフォーム前は上がり口に垂らした断熱ライナーの玄関側から、いつも風が、それも大量に吹き込んで来ていました。
ほんと、常時ライナーの下が風で持ち上げられている感じ。なので下にドアストッパーを置いて冷気の侵入を食い止めようとするのですが、そうすると今度は脇が膨らんで風が吹き込むといういたちごっこ。

この風はどこから、なぜくるのか。

    ↓これがライナーなんですけどお判りいただけますか?201801260803000s

 すきま風にしてはあまりにも大量すぎるので、お風呂の換気扇をつけっぱなしにしているからかなのかとも思いました。それではちょっと理屈が通らない気もしますが、これだけの風を説明できそうな理由を考えつきませんでした。

 その謎の風がリフォーム後にぴたりと止まったので、換気扇が原因ではなかった事がはっきりし、浮上してきたのが『対流』。
そうです、冷やされた空気と暖かい空気がぐるぐる廻るあれです。
あれだけ冷えが伝われば(玄関ドアはいつも氷の様に冷たかったです)、そりゃ空気も冷えて動きますわな←早く気がつけ、自分(^_^;)

 そして茶の間のすきま風もリフォームと同時にぴたっと収まってしまいました。何故玄関から遠い茶の間が!と驚いたんですが、廊下との温度差が少ないと、風が起きないみたいなんですよね。今まで茶の間でスースーしていたの、すきま風じゃなかったんだというこの衝撃。

 玄関一つでどれだけ風が吹き荒れてたんだ、家・・・。

 とはいえ対流の存在を確認した時点で、私は一つの不安も感じていました。
毎年花粉の頃になると洗濯物を部屋干しするのですが、階段の踊り場に干しておくとよく乾いたのです。厚手のものさえも、下手すると外に干すよりよく乾いて、とっても重宝していたのです。今まで乾く理由は判りませんでした。でも今なら予想がつきます。だって普通だったら暖かい日の方が乾きやすいはずなのに、踊り場は寒い日の方がよく乾いていたんですもの。だから今年は乾かないのではなかろうか・・・

 案の定、今年は全くと言っていい程乾いておりません。リフォームの後だというのに乾燥機の導入を検討しなければならない事態に陥っております(^_^;)

 ということで、『対流』は家中を駆け巡り、二階の厚手の洗濯物をもよく乾かす、という、去年に引き続き「嘘としか思えない本当の話」をアップすることになった四月一日なのでした。玄関から二階へ冷気が駆け上がっていったということでしょうか。私も信じられないわ(^_^;

 
 毎年毎年、どうしてこう逆張りなんでしょう、私。

みなさま、本年度もどうか宜しくお願い申し上げます。

 去年の四月一日の記事「善光寺のお話」はこちら(リンク
 昔書いた防寒記事「防寒・省エネマニュアル」はこちら(リンク

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