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2017年2月 8日 (水)

ぽんず、化粧品の奥深さを垣間見る

 元来ワタクシはあまりお化粧をしたことがなく、ファンデと口紅こそ数年に一度買いますが、アイシャドウやチークはハワイのお土産でもらったものを十数年使い続けたのを間に挟んで、自分で買ったのは二回、そしてその全てが使い終わる気配もないという人間です。しかし去年の事ですが、今まで見て見ぬ振りをしていたシミだらけの自分の顔に、突然罪悪感を感じるようになりました。他人様にお見せするのにもう少し配慮があった方が、つまり塗り隠した方が良いのではないかと。それでコンシーラーなるものをを買うことにしたのです。

 しかしお店のお化粧品売り場は、名前も用途も判らない商品が色々ありすぎて恐ろしくて近づけません。なのでネットで買う事にしました。詳しく調べるとドツボに嵌りそうなので、ちょっとだけ調べて銘柄を選び、以前何かの雑誌で読んだ「コンシーラーはファンデよりワントーン濃い色を選ぶのが鉄則。だってシミは濃いんだから」という有り難いご託宣に従い、使っているファンデよりワントーン暗いものを買いました。
 
 宅配で届いたコンシーラーは細い円筒形のガラス容器に入っていました。こんな形の容れ物に入った化粧品を私は今まで持ったことが無かった(大昔一回だけマスカラ買った事があります)のです。このスレンダーな容器を持つだけで、とても上手にお化粧が出来そうに思えてきます。私もひょっとしたらメイクが上手な人間になれるかもしれない・・・。

 と、期待に胸を膨らませ、歓び勇んでつけてみました。

 そうしたら濃い!こんなに濃いとつけた部分がシミのように見えるので隠した意味がなくなります。なので薄くのばしてみました。濃いめのコンシーラーを頬にまあるく広げるとどうなるか。そこだけ凹んで見えるんです。色合いの妙ってヤツでしょうか。
かてて加えて、私の買ったコンシーラーは透明感のあるツヤ有りタイプで、私の使っているファンデはどうもセミマットだったらしく(この時初めてそういうものだと知った)、濃い部分だけ透き通って見えるため、透明と不透明のコントラストが、色の濃淡コントラストに拍車を掛けてより一層目立ってしまうのです。更に更に、このコンシーラーは汗にも強いらしく、しっかり残るんです。ファンデが汗で流れ去った後、地肌にちゃんと濃く丸く生き残っている!(この時の顔が結構笑えました。だってそこだけツヤツヤなんだもの)

 化粧品って、色とかツヤとか持ちの良さとか、そういうとこまで合わせて買わないと駄目なのか!!!

 コンシーラー(シミ隠し)一つくらいなら自分で買えるなどと一瞬でも考えた私が愚かでした。世の皆様方はこのような奇々怪々な組み合わせを軽々選んでメイクを楽しんでらっしゃるのでしょうが、私には無理。
化粧品売り場に美容部員さんがいるのは伊達ではなかった。お見それしました。

 ちなみに、ツヤがあって伸びともちがとてもよい、なじみもよい、使ったのが私でさえなければ優れものであったろうコンシーラーは、エスティローダーの ダブル ウェア ステイ イン プレイス 02番です。く~、2980円もしたのに(T_T)

2017年2月 5日 (日)

ぽんず電車に乗る 2

 私にとって2016年は衝撃の年でした。何故なら、去年一年で二度も特急に乗ったからです。それも同じ中央西線!前回の出来事は「ぽんず電車に乗る」をご覧下さいませ(リンク)

 そもそもの事の起こりは愛知県豊田市で12月18日に催される、ポゴレリッチコンサートのチケットを急遽譲って頂いたことから始まります。電車では某ローカル駅→松本駅→多治見駅(岐阜県)→高蔵寺駅(愛知県)→新豊田駅と乗り継いで行きます。行きは良いとして帰りの下りは多治見7:04分発が最後の特急となるので、帰りの乗り継ぎ時刻も綿密に計画しメモもつくりました。これだけきちんと計画を立てたのに、切符の手配は当日松本駅で購入する自分になんの疑いも持ちませんでした。いつもなら列車内で食べる物を予め用意していくのですが、それも用意せず、駅弁を買うつもりでいました。そして駅弁を食べるのが嬉しくて、前の晩よく眠れませんでした^_^;

 そして運命の 18日日曜日。その日の午前中東海道新幹線が不発弾処理のために何本か運休すると事前に知ってはいましたが、山の中のローカル線になんの影響があろうかと高をくくっていた私は愚か者でした。すれ違う新宿発の特急列車が5分遅れたために、私の乗ったローカル電車も5分遅れ松本での乗り継ぎ時間が8分になりました。
松本駅では緑の窓口が長蛇の列だったので、指定席券自動販売機で切符を買おうとして、ちゃんと通路側の座席を選んだにも関わらず、最後の最後で何故か操作し間違えて片道乗車券と特急自由席券を買ってしまったのです。これなら最寄りローカル駅でも買えたのに!!!!

何の為にわざわざここで改札から出たのか判らない状態でとにかくまた改札を抜け、駅弁が並ぶ売店を横目に階段を駆け下り、ホームに着いたのが発車予定時刻2分前。しかし待てど列車の来る気配はない。その後アナウンスで特急「しなの」も5分遅れるとのこと!!もう自由席の列に並んじゃっておべんと買いに行けないのに「しなの」よお前も遅れるのか!てか、どうしてそれを早く知らせないの。あんなに慌てなければ指定席券買えたのに(それも往復で)

 その後、長くなるので省きますが、自分でも驚く程知力体力を振り絞り、僅かしか残っていなかった空席に座ることができました。
もっとももう一本早い松本行きに乗っていたらこんな苦労はしなくて済んだんですが・・・。あんなに楽しみにしていた駅弁だってちゃんと買えたのに・・・(涙)

 しかし受難はこれで終わった訳ではありませんでした。、この特急、5分遅れのままで多治見駅に近づき、そこでは乗り継ぎが3分しかなかったのです。もちろん乗り継ぎ客を待つ旨アナウンスがあったので、私は早めに乗降口に行き、列車がホームに停まるのを今や遅しと待っていました。ふと見ると横に子供が一人いたのでつい場所を譲ったところ、この子供が家族6人を呼び寄せ私の前に陣取り、小さい坊やが誰の助けも借りずに一人で汽車からおんりしようと何度も挑戦する(でも怖くてなかなかできなーい)のをおばあちゃんが大絶賛で励まし続けるという事態が繰り広げられるとは!ごめんなさい、私待ちきれなくて後ろから割って降りました。
そして階段を駆け上り駆け下りて、快速に飛び乗ることが出来たのですが、乗った瞬間次の試練に思い至りました。次の乗り継ぎ時間は9分引く事の5分で4分間。この4分で私は未知なる「愛知環状線」乗り場にたどり着かなくてはならないのです。乗り場が駅の外だったらアウトだー(涙)

 運命の高蔵寺駅到着。ドキドキしながら降り立つと、目の前に「岡崎行き」(岡崎行きって私が乗る奴よね?あ、メモにもちゃんと岡崎行きって書いてある!)が停まってる~(笑)

 岡崎行きの列車に乗った時の安堵感をどうお伝えすればよいのでしょうか。本当にほっとしました。と同時に疲れ果て、このまま引き返したくなりましたの。ポゴのコンサートを聴ける体力が残っている気がしなくて;^_^A

 愛知環状線はのどかな丘陵地帯を走っていきます。保見駅では遠くに団地が見えました。あの団地には豊田で働く日系ブラジル人の人が多く住んでいることを後で知りました。列車の乗客が多い割りにはどの駅も野中にぽつんとあるのが不思議でパークアンドライドなのかなといぶかりつつも、車窓ののどかさが私の疲れを癒し、仮に乗り遅れても次の電車はせいぜい20分後には来るので決してコンサートに行けなくなる事はなかったのだという事実を私に思い出させる程度には回復させてくれたみたいです。これならコンサート聴けそう(笑)

 と眺めたり考えたりしているうちに無事新豊田到着~♪
無事他の方と合流~♪
あとは他の方の後をくっついていくだけ~♪
しかも駅を出るときに帰りの切符「新豊田~高蔵寺経由多治見」を買っちゃった~。何故高蔵寺までではなく多治見まで買ったかと申しますと、松本高蔵寺間は松本多治見間+高蔵寺までより240円高くなってしまうのです。それで、わざわざ多治見まで切符を買ったのです。見よ!私のこの先見の明!ちゃんと着いたし切符も安く買えたし、今日の私は冴えてるわ~(*^_^*)

 そして帰り道

 案に相違してポゴのコンサートが人並みな長さで終了してしまったため、私が綿密に計算した最終デッドライン電車の発車時間までかなり余裕が出来てしまいました。なのでお友達とゆっくりしながら会場を後にし、ゆっくりぶらぶら歩きながら新豊田駅に向かい、目の前に来た一本前の電車も余裕で乗り遅れ(走るのめんどくさかった)、計画通りの高蔵寺行きに乗りました。

 高蔵寺では計画通りの多治見行きに乗り、たった数分の待ち時間で特急「しなの」に乗り、運良く自由席に座ることができました。もしあいていなかったら指定席に座る積もりだったので、全てめでたしめでたしです(*^_^*)

 そして車掌さんが改札に来たので多治見までの切符を出して松本までの切符と特急券を買った所、ちょっとお高い?あれ?なんで?と後でよくよく切符を確認すると、なんと!乗車券が松本~高蔵寺になっていて、高蔵寺~多治見が払い戻しになっている!!!何故?どうしてそうなる?なんだ?JRは人がせっかく買った切符を払い戻してまで割高運賃を請求するのか?と息巻いたんですが、高蔵寺と多治見は同じ中央西線なので、もしかしたら規定でそうなってしまうのかも。車掌さんもお忙しそうだったのでも引き留めて聞くのも気が引けて、そのままになってしまいました。新豊田でもう一本早い電車に乗れていれば、乗り継ぎは快速で多治見にはもっと早く到着するので、改札を出て切符を買う暇は十分あったはずなんですよね。240円あればオイコス1.4個買えたのに、と列車の中で涙ぐみました(本日もう一度確認したところ、高くなった運賃は190円、オイコス1.2個分でした。これがパルテノだったら1.4個かな?)。

 さて、無事松本駅に到着し、ホームに一歩降り立った瞬間、私は凍てつきました。寒いんじゃなくて凍てつくの。そして最寄り駅に行くための某ローカル電車は、この便に限って折り返し運転の為ギリギリまで入線せず、吹きさらしの端っこホームで凍えながら電車を待ったのです。入って来た電車に運良く座れ(座れなかった人多し)、田んぼの中をゴトゴト揺られて最寄り駅ホームに降りた瞬間の気持ちたるや・・・
一言で言うなら「オホーツク海に落下して凍った」でしょうか。

 駅から家まで「寝るなー!寝ると死ぬぞー」と自分に言い聞かせながら歩きましたわ。 家にたどり着いたときなんてもう、手袋しているのに指先の感覚がなくて鍵が出せませんでしたことよ(T_T)


 これがワタクシの道中記です。長文になりましたが、これでも起こった出来事の半分しか書いていません。こんな艱難辛苦を乗り越えてお出かけされる方々を心から尊敬します。私には数年に一度位しか無理かも。10月のポゴリサイタルが今から怖いです・・・(号泣)

2017年1月 5日 (木)

『ビニール傘』を読んだ

  知人の 岸政彦氏が書いた小説「ビニール傘」をやっと読む事が出来た。

 生活史の聞き取り調査をしている社会学者の著者が初めて書いたこの小説は、女性客を乗せたタクシー運転手の視線から始まって、登場人物の目に映る光景が淡々と書き出されていく。「断片的なものの社会学」での 氏の視線に似ているなと思っていると、いつのまにか別のシーンにいた。丁度グーグルストリートビューで街を眺めているときに、そこに映り込んだ何か、ポストとか、看板とかをよく見ようとズームした後、元に戻ろうとすると今までいた道ではない、どこかずれた、別の、思いもかけない場所が目の前に現れるように、話はズームし少しずつ場所と人を変えながら、なめらかに進んで行く。
違う人なんだけど何かが重なっている。ふと立ち止まって後ろを振り返ったときに別の登場人物の人生が見えたら、それが自分の人生だとなんとなく納得してまた歩き出してしまいそうな、覚束ない感覚が続く。出来事が指の間からすり抜けて、そのすり抜けた瞬間だけ自分の人生を感じられる、そんな心許なさ。

 後半、極々若い、女の子と言ってもよい人物が登場する。この子が語る出来事は、前半に登場してきた登場人物達のものよりは遥にはっきりしっかりしている。それは彼女が生きている事の覚束なさに囚われるにはまだ若すぎるだけなのかもしれない。ならば彼女は年を重ねるうちに、前半に出てきた人達の様に心許なくなってしまうのだろうか・・・

 
 私は新聞などに小さく載せられた、孤独に死んだ人や、情けない小さな事件に巻き込まれて命を落とした人が、少し間違えれば我が身に起こっていたのではという気持ちによく襲われる。たまたま、運良く、難にも遭わず屋根の下で暮らしているが、何処かで違う選択、判断をし、別の出来事に遭遇していたら、彼らの代わりに私が冷たくなっていたのかもしれないと思い、親近感では決してなく、ただその人達と自分との境、違いが判らなくなって落ち着かない気持ちになることがある。この作品を読んで、その不安な気持ちが説明され、共感され(そう、この小説は共感を求めるのではなく読者に共感するのだ)、ほっとした気持ちになった。そして少し救われた。

2017年1月 4日 (水)

あけましておめでとうございます

 あけましておめでとうございます

 今年もお正月三が日、毎日お節を食べ続けておりました。材料が豆だの牛蒡だのと歯ごたえのあるものばかりなので、ギブアップしておかゆを食べたくなるまでの期間が年々短くなって来ている気もします。これも寄る年波のせいでしょうか。

  でもね、正月二日に、ふんわり素材でないしっかりした厚手腹巻きをした上に、腹巻き付きあったかフリース裏地パンツを履くと、締め付けがきつすぎて息が出来ないという新たな気づきと知見を、ワタクシ得てしまいましたの(*^_^*)

 人間、年をとっても学べることはまだまだ沢山あるんですね(そうか?そうなのか?)

 斯様な私ではございますが、皆様、本年もどうかよろしくお願いします"A^^;

2016年12月31日 (土)

よいお年を

 拭いたばかりのガスレンジに、黒豆を吹きこぼしてアントシアニンの海、それを拭くと今度は煮染めが吹きこぼれる。拭いては吹き拭いては吹きが年の瀬の風物詩となった我が家ですが、2016年もいよいよ今日が最終日です。

除夜の鐘まであと2時間を切ったというのに、私はまだ用事が終わっていません。
おかしい!一年は365日もあるのに、なぜお正月の準備を前倒しして春先に片づけられないの~~

 などと徹頭徹尾、お馬鹿な泣き言ネタしかないブログですが、この一年、本当にお世話になりました。

 
今年の一曲は、ボルトニャンスキー 合唱聖歌コンチェルト 
この名前を口にする時は「ボルト にゃん♪(ここで小さくガッツポーズ) 好きぃ♪」と発声するのがひそかなブームなんですのよ~(本当か?)。さあ、みなさんご一緒に!

「ボルト にゃん♪ 好きぃ♪」

 

ご唱和、ありがとうございます!皆様、よいお年をお迎え下さいませ。

Bortnyansky - Concerto 32 "Lord, make me to know my end"


ボルトニャンスキーの画像検索結果が異様にかわゆい件について(笑)→リンク

2016年12月 2日 (金)

トールキンを読んでいる(加筆改訂版)

 昨日から師走です。SNSで「ロードオブザリング」を読んでいると申告してからほぼ丸一年経った事になります。それにも関わらず、私は未だに現在進行形の「読んでいる」です。どうしてこうなったのか、その理由を、読み始めるきっかけ共々縷々綴ってみたいと思います。

 松本市の図書館にトールキンの"The Hobbit"邦題『ホビットの冒険』があったことがそもそもの始まりです。去年の十一月に、現実逃避が出来て面白そうだし英語の勉強にもなるかもと、手に取りました。難しかったら返せばいいわと気楽に読み始めたのですが、これが平易で読みやすい文章の所々に、それより少し難しい単語や構文が良い塩梅に配置されていて、言語学者が子供向けに書くと(実際著者の子供のために書かれたのが最初らしいです)こんなに読みやすく勉強にもなる文章になるのかと、舌を巻きました。そして文章自体も素晴らしく、いい年したおばさんではありましたが私は熱中してしまいました。

 この図書館には「指輪物語」の原書もあります。ホビットを読み終えた私は、年末休館での貸し出し期間延長に合わせて、原書の方を借りました。その時何を血迷ったのか三巻に別れたのではなく一冊のやつを。書庫から司書さんが担いできたそのハードカヴァーは、総頁数1193、漬け物石なみに重い代物だったので、間違いなので書庫に返してとは言えず、泣きながら家に背負って帰りました。
見込み違いはもう一つあって、「ホビット」を書いたときにはまだ子供だった著者の息子さんは、「指輪」を書く頃には難しい文章も読める年頃になっていたらしく、文章のお子様配慮がほぼ消え、トールキンの独自の言語と世界が遺憾なく展開されていました。この本の中で一番判りやすかった文章が、現代社会で通じる言葉しか出ていない巻頭の"Foreword to the second edition"(第2版に寄せて第2版序文)だったといえば、ご理解頂けるでしょうか。それでもお話しは読めば面白いので頑張って読みました。
当たり前ですが返却期限が来ても読めたのはごく僅か。このまま延長してもとても読み切れそうもなかったので、諦めて1300円のKindl版を買い、凶器の様に重い本は図書館に返しました。最初からこうすればよかったのにね;^_^A

 それから返却期日を気にせずトールキンに浸る日々が始まったのですが、2月のある日、目次にあった"Note on the text"(この場合テキスト覚え書き?備考かな?)なる文章を読んでみたのが運の尽きでした。

 これが何回読んでもややこしすぎて理解できない。最後まで読めないだけでなく、読む端から何が書いてあったのか忘れていく。多分日本語で書いてあっても私には判らないと思います。これを読み始めた日から、私は本文を殆ど読めなくなってしまいました。
この備考には、何が書かれているのかというと、この本が発行された直後から著書が被った、印刷工、編集者などによる誤字誤植、そのほか考えられる限りの災難が延々と書き記されているのです。

 54年の初版出版時、戦後の紙不足のせいでこの本は三巻に分けて出版される事になりました。その第一巻には、印刷工、編集者などによる誤字誤植、写植工さんの善意の直しによる誤植などが沢山ありました。一例を挙げるとdwarvesがdwarfsにelvishがelfishに、nasturtiansがナスタチウム(nasturtiums)などになっていて、著者の造語や語源に配慮した精緻な言葉使いに多大な打撃と混乱をもたらしました。一巻の第2刷がその年の12月に出たのですが、実は印刷屋さんが一巻の活字をバラしておりまして、著者にも出版社にも知らせずに組み直したために、普通の文章ならまともでも、トールキンワールドから更にかけ離れたものが刷り上がってしまいました。いつかつけると序文に書いた用語説明もつけられないまま、3巻目が出版されたのはその翌年。それからほぼ十年間、混乱しきった版は刷り続けられました。

 米で間違いだらけの海賊版が出たことなどを間に挟み、トールキンは最初の改訂に着手し、65年に米国から出ました。この版は序文が直され、簡単な用語解説などの巻末付録をつける事が出来ました。しかしトールキンがその本の実物を手にしてみると、想像以上に間違いが多い。トールキンはその訂正を送り、刷られる度に直しが入ったのではありますが、いつも正しく訂正された訳ではなかったので、その訂正自体が更なる混乱を引き起こし、どうしたものか英国での三巻揃った改訂版出版まで遠のいてしまったのでした。トールキンは一度は改訂版について書こうとしたのですが、余りの混乱で出来なかった模様です。

 1966年、英国でもやっと三巻揃っての改訂版が出るやに思えたのですが、米国版で使われた改訂原稿の一部紛失という、まれにあるけどここで起こるとは、な出来事が発生し、英国の出版社はやむなく間違いの多い最初の改訂米国版を元に組み直しせざるをえませんでした。この改訂第2版は、他にも膨大な間違いを含んだものでした。
間違った版と正し目の版の識別が必要になってきたのです。

 67年、米国で改訂版がでます。これは英国版からの写真オフセット印刷で出されたのですが、私には読んでも判らない理由によって出版年が65とか66とかあって今度は図書館や研究者に大混乱を引き起こしました。(ごめんなさい、私も混乱してよく判りません)

 トールキンは諦めず頑張って(というか気になってやらないわけに行かなかったみたい)、なんとか67年に改訂版がで、その後69年のインド版で小さな改訂が載りました。
73年に彼が亡くなった後、息子のクリストファー氏が見直し作業を引き継いで出した改訂版が出たのが74年。これは活字印刷でしたが、作者の改訂原稿にほぼ沿ったものでした。
しかし、それにも間違いが発見され(一番ひどく間違っているのが、この版以前も含めいつも何故かアペンディクスだったそうです)、クリストファー氏は見直しを続けたのですが、ペーパーバッグにする時に必要な組み直しの度に、、必ず間違いが入り混まざるをえなかったそうです。とはいえ英国版ハードカバーはまともだったみたいです。

 そして94年、ワープロ導入で出版!

 私はこれで全て解決に向かうのだとばかり思いました。この訳の判らない世界から解放されると。
あはははは。
いつもの間違いの他に、なんかのバグでセンテンスが抜け落ちてたらしいですよ。
(章ではなくセンテンスでした。お詫びと訂正を致します)

ここまで来ると私疲れ果てて読んでも既になにも理解できなくなり、この先は殆ど読めていません。何回挑戦してもこの辺りで撃沈します。
これらの経緯は"J.R.R.TOLKIEN - A Descriptive Bibliography"という本に詳しく書かれているそうです。

 
 そして2004年、私が読んでいるところの出版50周年版がでて、話はそこで終わった模様です。この版には Note on the 50th anniversary edition なる文章もあるのですが、私は恐ろしくてまだ読めていません。読んでも判るか自信がありません。

 と言う次第で、私はこの巻頭備考を読んでから、ここに何が書かれているのかはっきりさせないと気が済まなくなり、本文には手が付かない状態が長く続いたのでした。
 
 でも、一年十ヶ月経って漸く悟りました。私には無理です。諦めて本文を読みます。

 この出来事について書かれたブログがありました。私の文より参考になると思います。
続・トールキン関連本を読む ( トールキン作品のネタバレ有 )ブログより
Annotated LotR !! 米版 50周年記念エディション(近刊)

 追記
私が買ったアマゾンkindle版は今年の1月には1300円でしたが、確認したところ2524円に値上がりしていました。なんなの、この超インフレは;^_^A
201512221918000画像にある本はハーパーコリンズの91年出版のものです。


 

2016年11月23日 (水)

ぽんず列車に乗る

 「ぽんず切符を買う」の続編です。9月に書いたのに今頃アップと相成りました;^_^A

 買った切符で無事に電車に乗れました。列車ではタイマーを到着時刻5分前にセットしてぐっすり眠るつもりでいました。何故とは言うに、ここにたどり着くまで、私が留守にしても良いようにあらゆる準備をし、おかず作りに山ほど時間を掛けていたからです。作りすぎて帰ってからも三日くらい作り置きおかずを食べてました(笑)出発前に寝る時間もない程頑張れたのは「列車の中で眠ればよいのだ」という目算があったればこそなのです。だから死んだように眠りこける計画でいたのです。

 計画は所詮計画でした。乗って暫くして、まだ眠りに陥る前に、突然車掌さんではない人が車両に現れ、「経産省の交通手段に関するアンケートにご協力下さい」と言って、乗客一人一人に用紙を渡し始めたのです。

 まあそんな事もありましょう。ささっと書き込んで後は待望の睡眠&休息時間だー!

 このアンケート、「何の用事で列車を利用するのですか?」から始まり「他の交通機関を使わず列車を使ったのは何故ですか?」等々、延々と質問が続き、全部で数頁もあって書き込むのに時間がかかるかかる。そして全てを記入し終わった後、この用紙は回収されなければならないことに、私ははたと気がついたのです。
どうやって?
いつ?
説明には郵送も出来ると書いてありましたが、旅行中これをずっと持ち歩くなんて嫌なので、今回収に来てくれるならその時手渡たそうと、私は回収を待ちました。
待ち続けました。
寝ないで。
がんばって・・・

 回収に来たのは到着30分を切った頃でした。記入項目が多かったので、時間を多めに取ったんでしょうね。私の唯一の睡眠時間が露と消え、私は疲労困憊のまま、目的地に突撃することになってしまったのでした。

 泣きましたにゃー(涙)

2016年11月13日 (日)

記憶力に問題があるハンター

 今年の我が家はいつにも増して蜘蛛が沢山寄ってきました。特にベランダは三方向蜘蛛の巣、それも全部女郎蜘蛛の巣で怖くて怖くて。
ベランダに出る度に蜘蛛の巣から目が離せませんでした。怖いと見ちゃう(T_T)

 そんな状況で意図せず蜘蛛の巣観察を続けたところ、巣によって実入りの違いが結構ある事に気がつきました。ここは虫がかかるに違いないと思った巣はそれ程でもなく、目立たない、こんな場所を虫が通るのかさえ覚束ないところに張られた巣に、一番虫がかかっていました。ある日、巨大トンボが地味な巣の主に襲われている場面に遭遇した時など、洗濯物を干さずにそのまま退却したくなりました。この巣は本当に獲物が多い。

 とある朝、いつもの様に洗濯ものを抱えてベランダに出てみると、ベランダの真ん中、腰の高さに巣が張られていました。今までは手すりの外側にだけ張られていたのが遂に越境されたのです。私が蜘蛛に太刀打ちできるとはとても思えなかったので一瞬ベランダ使用を諦めたのですが、よくよく見ると、地味だけど効率の良い巣の主が見あたりません。昨日吹き荒れた強風で吹き飛ばされ、やむなくこの場所に巣を張った模様です。元の巣は目と鼻の先なのに、この蜘蛛は戻れなかったのかと思うとおかしみと余裕が湧いて来て、一番太い糸をつまみ取って、蜘蛛をぶら下げながら元の巣のすぐ側に戻してあげました。強風にも関わらず蜘蛛の巣は無傷でした。この蜘蛛、巣作りの腕も良いのです。

 その翌日、件の蜘蛛は、私が置いた場所と元の巣の距離分だけ反対方向に巣を作っていました。新しい巣はこぢんまりとしながらも、既に沢山の獲物がかかっていましたので狩の腕はやはり確かなようです。でも戻るべき方角が逆・・・。この蜘蛛記憶力に問題があるのでは・・・。

 それから暫くして、それ程ひどくもない風の吹いた翌日、例の蜘蛛はまた姿を消していました。ベランダを探してみましたが今度は蜘蛛の姿は見あたりません。もっと遠くに飛ばされてしまったのかもしれません。

 その後、主のいる他の巣は風などで壊れるのに、主無き例の巣二つは全く壊れる事もなく、健在のまま日が経っていきました。私は半月ほど蜘蛛の帰りを待った後、何があっても壊れない立派な二つの巣を壊しました。腕はいいのに、すぐ飛ばされてお家に帰ってこられなかったあの蜘蛛に思いを馳せながら・・・

2016年11月 9日 (水)

「ひらめき」さえあればそれでいいのか?

 東京デザインウィークでの、防止できて当然だったあの惨劇で思い出した事がありました。

 高校・大学生になったきょうだいが家族と顔を合わせようとしなかった自身の体験を踏まえ、子供が家族と顔を合わせるために母親にリビングで寝起きさせるような大学生の間取り案をそのままをを准教授がネット記事に載せて炎上した事件です。
「家族が仲良く暮らせる間取りとは Yahoo!マガジン」
(当該記事は削除ずみ。詳細についてはその騒動についての記事「大学生の考えた「家族が仲良く暮らせる間取り」が母親を人間扱いしてなさ過ぎて話題に」(リンク)でどうぞ)

 この間取りは母親のプライバシーを一顧だにしていないと炎上したのですが、私が一番引っかかったのは、元記事にあった「学生のその発想が面白かった」という准教授のコメントでした。発想は面白いかも知れないけれど、来客の想定も出来ない日常生活に無知な学生の思いつきをそのまま世間に公表するって、教育者としてどうよと。
この学生に対しては、例えばどうして玄関とリビングの間に壁のある家が多いのか考えさせて、家庭内の生活を訪問者全員に見せたくないからだと気づかせるとか、母親が病気になった時は家族はリビングをどう使えばいいのかとか、この間取りで起こるであろう様々な問題を提示してその解決策を考えるうちには、もっと練れて意義のある間取りが出たかも知れないし、住居に対する学生の浅い考えも少しは良くなったのではと思うのですが、教える側は学生が面白い発想をしたことだけに注目して、その発想を学生にもっと掘り下げさせて想定出来る明かな不備を補おうとはしませんでした。

 発想と言えば、アートイベント会場に何も知らないデリヘル嬢を呼ぼうとした事件もありました。
これも 「88の提案の実現に向けて」と題する、一般の人からアンケートで集めた思いつきを実行しようという、発想だけが命みたいな企画でした。
一般人の様々な発想も集めれば面白いかも知れませんが、その気軽な発想が引き起こすであろう深刻な事態を一切考えようとせず、アートだからと言って振り切ろうとさえしてしまった、もし実現していたら最悪の人権侵害を引き起こしていたかもしれない作品でした。
今回のジャングルジムも、危険ではないかという指摘に「アートだから」と答えて聞き入れてもらえなかったという話が出ています。

 発想・着想・インスピレーション、独創性、言葉はなんでもいいのですが、最初の発起点を重要視するあまり、その発想を掘り下げる努力を自ら放棄してしまっている様に私には思えます。なんというか「発想が大切」で思考停止している感じ。思考停止って創造性の反対にある行為だと思うのですが。

 最初の間取りを考えた大学生の「発想」が意図していたのは家族が仲良く暮らすために誰かに玄関から丸見えの場所で寝起きさせて身支度を調えさせることなのか。
「88の提案の実現に向けて」を実行した若手アーティストが目指したのは、何も知らないセックスワーカーを公衆の面前に引きずり出す事なのか。
東京デザインウィークの鉋屑ジャングルジムを作った学生達が思い描いたのは、5才児を中で焼き殺すことなのか。
もしそんな意図を持って作った作品なら、私は要らないと思うし、今は昔のパトロンとも言うべき地位を占める自治体や社会が、これらを作品としての受け入れを拒否していいと思います。そういうのが好きな人向けにアングラで流せばいいだけで(アングラでもアウトなものはありますが)。
もしそんな意図ではなかったというのなら、最初の発想から意図せぬ雑音を取り除くべく、真摯に練り上げる必要があるはず。なのにピュアな着想という幻想に囚われて、考え抜くことも外からの指摘も拒否して、結果不純物にまみれた作品を造ったあげく、不純物が引き起こす被害を、もし創造性のコラテラルの様に考たとしたら、それは不遜がすぎるのではないでしょうか。

 と書いている最中にこんな話題が飛び込んで来ました。
「多摩美術大学 佐野研二郎葬式パフォーマンス」(リンク

 これもやっぱり、アートか人権か、ブラックジョークか社会の不寛容さかというレベルの話ではなく、ただ単に動機(この場合は)から作品を創り上げる過程の練り上げが足りないだけなのに、「アートだから」で思考停止して害悪をまき散らしている事例ではなかろうかと思います。

 近年立て続けに起こっているアート関係による深刻な被害って、周りが創造だからと何も言わない事で引き起こされる、単なる技術不足、訓練不足ではないかという気がしてきました。

参考リンク

「アートにデリヘル嬢呼ぶな」
「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か 提案に賛否飛び交う」京都新聞

 11/15 追記
 デリヘルを呼んだ事件についての記事がありました。
私はこの思いつきが単に性的なことを声高に話して(比喩です)タブーに挑戦したかのような、ノリだけだと思っていたのですが、その上に相手の都合を無視して怒られない相手を無意識に選んでいたことも、この記事で気づかされました。
「『デリヘルを呼ぶ』は芸術か 提案に賛否飛び交う」について(1)(リンク)「思いつき」とか被ってますが私のパクリじゃありません。誰がみてもそう思う事柄です。

2016年10月23日 (日)

くんくん物語 Ver.2.365(バージョンにぃてんさんろくご

 新米が美味しい秋たけなわ、皆様いかがお過ごしでしょうか。
緑茶の匂いは微かにわかるのに、コーヒーの匂いがいまだに殆どわからないという摩訶不思議匂いワールドに棲息中のぽんずです。

 香りの強弱と匂いの判別とはまた違うんでしょうか。先々月に日本茶の微かな香りがわかったときは完治ももうすぐと思って色めき立ちましたが、まさかコーヒーでここまで手こずる事になろうとは夢にも思いませんでした。いまだにコーヒーは微かに焦げた臭いしかしませんの。ほんと不思議(^_^;)

 さて、鼻が利かなくなって起こる不思議な事と言えば、空気の匂いがわからないと「気配」を感じられないというのがあります。
夏の盛りに庭で水遣りをしていても、草木や地面が濡れた匂いがしせいなのか、現実感が薄いんです。突然映画か何かを観ているような錯覚に陥ってしまうんです。「あの草は本当に存在しているのか」などとふと思ってしまう。雨が降ってもそう。目の前で起こっている事と臭いが連動していないと、自分だけ切り離されている様な錯覚を起こします。
街中を歩いていても、ふとこの世に自分一人しか居ないような気がします。火星にたった一人で不時着したような何ともいえない孤独感に度々苛まれました。

 これには精神的にちょっと参りました。だからある日庭で水遣りをしていたら草いきれが一瞬立ち上ったときには、嬉しかったです。一瞬しか匂いませんでしたが小躍りしてしまって(笑)
水遣りの後、家に入って、あの幸せな気分をもう一度思い出したくて、そっと深呼吸してみたら、部屋がかび臭いという事を発見してしまいました。

今年の夏は雨が多かったですものね・・・・(涙)

 10月なのに25度を超えた日の出来事を付け足して記す。

 思わず付けたカーエアコンから吹きだしてくる風がくちゃかった・・・(。>_<。) 

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