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2006年8月28日 (月)

「これって編集者の力量不足ってことではないでしょうか。」閑居堂さんへのコメント

 拙記事「これって編集者の力量不足ってことではないでしょうか。」につけて頂いた閑居堂さんのコメントへの返コメントです。
 長くなってしまったのでやむなく記事にさせて頂きました。


閑居堂様

 閑居堂さんは「子猫殺し」での坂東さんの主張を、飼育する「人間の責任として糾弾を浴びようとも『子猫殺し』を選んだ」とお読みになられたのですね。

 私はこの文章で坂東さんが綴っているのは糾弾を受ける覚悟ではなく、避妊手術をしている飼い主への糾弾の様に感じてしまいました。

枚挙に暇が無いのですが長くなるので一箇所例を挙げますと、

獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。 その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。

 この部分、子供を産む事を「生」とする定義は、人それぞれの考えなので良いのですが、何故「奪い取る」の主語が「私(坂東さん自身)」ではなくて「人間(普通に一般的な定義ですね)」なのか、という主張以前の素朴な疑問を持ちます。
 これでは避妊を選んだ飼い主一般に「対する」阪東さんの告発になってしまい、猫を愛玩動物として飼っている坂東さん自身の葛藤にはなっていません。
 主語を変えてみましょう。

 私は獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか、と考えた。 その本質的な生を、私の都合で奪いとっていいものだろうか。
 何故こう書かないのでしょう。

 このコラムを読んだとき、閑居堂さんがコメントに書かれた問題提起としてのコラムなのか、坂東眞砂子という人間の内に潜む毒を表現しようとしたコラムなのか、全く判断がつきませんでした。記事に書いた『天の邪鬼タマ』についても同じように思いました。

 話はそれますが、私は毒を書いた作品であっても否定するものではありません。ストリンドベリの「痴人の告白」は全編作者の思いこみのオンパレードですが、この作品の中で作者は自分自身を唯の一度も分別のある中庸を好む人間として「描かなかった事」で、作中での主人公(作者自身ですが)の偏執が際だち、文学としての価値を持つことが出来たと思います。

 坂東さんの二つのコラムは理論が飛躍しすぎるのもそうですが、文章の軸足がはっきりしていないのが一番の問題だと思います。
 問題提起として書くつもりならばそのように、毒を書くつもりならばそういう風に書いた方が良かったと思います。
何故ならばこの二つのコラムはどっちつかずに書いてしまったため、安易な行動をする主語がいつも作者ではなくて我々読者という、独りよがりの自己肯定と読めてしまうからです。
今世間で坂東さんに対する反発が起こっている理由も、彼女のした「猫殺し」からではなく上の理由からの方が多いのではないでしょうか。
私が記事の題にあるように編集者の責任を持ちだした訳はここにあります。

 また閑居堂さんの

「ソレは食用になる動物でしょ!今考えているのは愛玩動物のことデショ!」と言いたく なるところだと思うのですが・・・
    という一節で説明させて頂くと、  可愛い子豚を屠殺しつつ、ソーセージを愛玩動物に買い与えている自分の利己的さ加減、またそのご都合主義が判っているのに、それがもたらす楽しい(愛玩動物と言うことで)生活を欲し続ける自分という存在を日々認識せざるを得ない、という状況は動物を飼ったことのある人間ならば一度は陥るディレンマでしょう。  私自身の話としては田舎なので養豚場が多く、子豚を乗せた「処理施設」へ向かうトラックをよく見かけます。 でも私に出来ることは目を逸らさない事だけです。

だから

その痛みを共有する覚悟をもってソウする。
(閑居堂さん)

事を自分の体験をもって書くことが、

もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。
(「子猫殺し」の結び)

 を何よりも力強く訴える方法であり、それを本気で訴える気持ちが作者にあったのならば、そう言う文章を求める事こそが編集者の仕事なのではないでしょうか。これが私の書いたビシバシの中身です。最初からこう書ければよかったのに。わかりにくくて本当に申し訳ありませんでした。

 

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コメント

ぽんず様

子猫殺しの正当性をジブンジシンに納得させる上で(糾弾を甘んじて受けるとは表向き言ってはいるものの、よく考えた末「子猫殺し」を敢行しているかの表現はあるものの、やはり自分の選択に絶対的な確信をもてないというのが実際のところなのではないかなと思いますし、そのような心の揺れがあって当然とも思うのですが)、一般的になされている(また社会通念上正当なものとして絶対多数に受け入れられている)避妊手術を対照させて考えることしか筆者としては他に書きようがなかったと思います。個としてのワタシが行なう「子猫殺し」に対して、避妊手術はワタシではない「人間一般」の行なう方法・選択という意識が働いていたのではないかとも思えます。また、「痛みと悲しみを引き受け」る重荷を回避しようとした無意識のはたらきがソノヨウニ「人間」と記させたのかもしれません。この記事は日経新聞の最終面(わたしの履歴書の掲載ページ)に掲載されたものでしょうか?作者の意図が不明瞭であるということですが、(筆者を弁護するような書き方になっていますが)この手の文章は、作者もどこへ着地するのかワカラナイようなところで書いているものが多く、また、そのような揺れのある文章の方が、この手のモノとしては質が高いように思います。ぽんずさんのことばを借りれば、まさに「ひとりよがりの自己肯定」にも思えますし、絶対多数を相手に強がりを記しつつも自分の良心を必死にナダメテいる文章と理解することもできなくもないようにも思います。確信犯でありながら打ち震えている人間がソコに居るという・・・。
詭弁でしょうか?

ぽんず様

今回の騒ぎで(あくまでも私が)感じることは・・・

少々乱暴な言い方ですが、抗菌商品に囲まれた都市の住人が、未開の土人にオドロイテいるようなもののようにも思えます。

まして、未開の土人はタヒチ在住の土俗的なテーマを扱う(ホラー)作家というではないですか。

わたしは阪東さんの著作を一作も読んではいないのですが、土俗的な雰囲気というのがなんとなくわかりますので、そのように思います。

先に記しました、深沢七郎(『楢山節考』という映画化されている深沢の代表作も土俗的な作品ですが)の代表作のひとつに「笛吹川」という作品があります。その小説では、主人公とおぼしき人物たちが、次々と死んでいきます。生まれるものあり死んでいくものあり、そこには、嘆きも無いではないですが、「それが自然」というワリキッタまなざしが作品のなかに終始しております。コドモのことを「ぼこ」と山梨あたりでは言うようですが、子供もまさにボコっと産まれて、死んでいくという・・・。剣に倒れて死んだ妊婦の股間でエイ児が蠢く生々しい描写もあります。ソレは、武田信玄に仕えた農民一家の代々を描いた作品ですが、驚嘆すべきものです。

むかし、日立製作所の提供している世界の紀行番組があって、ドコの国かは忘れましたが、普通の家庭の主婦が自分の家で飼育している山羊を潰すところをやっていました。日本語に吹きかえられた歌が流されていましたが、内容は「今日はオマエがおかずだよお・・」というもので、そのアト、ライフルなどの銃器で屠殺し、食卓に肉として供するところまでをやっておりました。

長く飼育していればイクラ食肉用にソウシテイルとはいえ、それなりの愛着の感情もあろうかと思うのですが、そのような感傷は微塵もなかったように覚えています。もっとも、そんなヤワな感傷などあっては主婦はヤッテランナイヨというくらいのたくましさでした。

こちら(私)は、地方とはいえ、一応、文明国に棲む現代人ですので、ソレを見てタイヘン驚いた次第です。

ただ、今回のハナシは「子猫」が相手ですので、反応も大きかったろうと思うのですが・・・

むかしのはなしばっかり持ち出して恐縮ですが、今から40年も前は動物医院などなく、ワクチンなど処方せずに犬を飼っておりました。寿命も短かったと思います。それがフツウでした。犬など、縁の下でコドモをつくり、そのコドモが大きくなってしばらくするころには親犬が死んでいくというのがアタリマエでした。不用な犬は、人にあげました。もらい手が無い場合は、しのびないもののダンボールにつめて放置したり、より「ふさわしい方法」としては保険所に連れて行きました。当然、殺処分されるのですが、近所の会話でも「仔犬どうしました」「保健所に・・」という会話がフツウになされていたように思います。(犬を例にあげたのは猫を当方飼ったことがないからです。)

今回の騒ぎで、「子猫殺し」を表沙汰にする方もヨッポドですが、騒ぐ方もヨッポドであると感じています。

それだけ「愛玩動物」の実生活に占める比重が強く重くなっている、しかも、ネズミを取る、番をするといった実用の意味ではなく、感情的な比重においてそうであるというのも騒ぎに大きく貢献しているように思います。

最終的には、人間の親が子に対して親権を行使するように、愛玩動物にもソレナリのフサワシイ権限の行使の仕方というのがイヨイヨ求められることになっていくのかなと思っております。

勝手なことばかり記しました。失礼がございましたらご容赦いただけますように。

閑居堂様

 結論を書き忘れたかのような記事に続き、今度は間違えないようにと思うあまりのですます文を書いてしまい、申し訳ありません。

 今回阪東さんのコラムがここまで大騒ぎになった原因は多分「きっこのブログ」 http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/ で取り上げられたからだと思います。
 きっこさんは過去の記事を読む限り、野良猫を捕まえて避妊手術をしたり、医者につれていったりしつつ、過酷な環境の中で悲惨な生を歩む生き物にもっと別な過酷でない生き方はないのか模索している人物に、私には思われました。

 田舎(あるいはタヒチ)と違い、都会(または現代日本)は動物をペットとして愛玩するが故に殺す行為に過剰な拒絶反応を起こしている、という指摘は、残念ながら事実ではありません。
 現在も日本では(というか、アメリカなどでも)保健所につれてこられて処分される犬猫は数多くいます。その大多数の理由が、可愛い仔犬(猫)だったので飼ったが大きくなってしまって飼えないとか、野良猫の鳴き声がうるさい、臭いがして不潔なので始末するように役所に連絡が入って、という人間の身勝手から発生するものです。この事は各地域の保健所のウェブサイトなどに書いてあります。
 taco-pooさんの記事の中にも確か「地域猫」という言葉が出てきたと思います。これは野良猫などを厄介者として駆除せず、猫の習性を考慮した上で共存できる道を探ると言うものです。動物を大切に飼っている人でこういう活動に興味を持ったり参加したりしている人は数多くいます。

  また捨てられた子猫を拾ってしまい必死で里親を捜している人々は、決して死を嫌っているのではなく、既に動物を飼っている場合が多く、自分の体力、経済力(特に女性の場合)を越えては飼えない為、もし飼い主が見つからなかったら自分がどんな選択をしなければならないかを知り抜いているからこそ、子猫一匹に大騒ぎしている訳です。
また子猫は捨てられては殆ど生きていけないようです。カラスに目玉をつつかれて殺されます。一緒に捨てられている兄弟猫の何匹かが既にカラスにやられていた、という話はよく聞きます。また都会ですと飲み水がないのだそうです。早坂暁さんによると渋谷公園は猫が多く捨てられる場所なのだそうですが半日もたないそうです。

 こんな現実を見据えた上での選択が室内飼いか避妊手術なのですが、坂東さんはコラムで
> 避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。
>そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。

と書いてしまったのですから、これは自業自得でしょうというのが今回の騒ぎに対する私の考えです。

 続きます。

続きです。

 何故私が記事に坂東さんのコラム「天の邪鬼タマ」を取り上げたのかと言いますと、記事の中で書いたように新聞のコラムの中には出来の悪いものが多くあり小学生の時から辟易していた事もありましたし、日経のこの騒ぎに対する記事を読み、筆者の自主性を尊重などという、言わずもがなの大原則を持ち出したあたりで、読者達の気持ちを慮る為に紙面に載せる人の意見や情報を「自主規制」と称して選別し始めるのでは?という危惧もちょっと頭によぎったために書きました。
 記事にした題材が「天の邪鬼タマ」なのは、このコラムの理論の飛躍の方がひどかったのと、高所高台から人を見下ろす感じが、いかにも新聞的だったからです。

 一記事の中に上の二つの主題を入れてしまったため、自分でもわかりにくいかもしれないという気持ちがあったところへ、閑居堂さんの最初の書き込みが、「天の邪鬼タマ」ではなくて「子猫殺し」についてのものだったので、「こんな風に読まれたらどうする?」というさりげない教育的指導であろうと私が勝手に思い込み、教育的指導ならば常連の方の閑居堂さんであろうとこれまた私が勝手に勘違いしてしまいました。本当に申し訳ございません。

 記事「子猫殺し」、また今回の騒ぎに対する私の考えは、今も閑居堂さんの意見とは異なるものですが、閑居堂さんの考えを読ませて頂いた事は私にとって、世の中の色々な考えを知る事が出来る大変有益な体験だったと思っています。

日経の記事URLです。
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20060824AT3G2400324082006.html

ぽんず様

丁寧なコメントありがとうございます。
当方、あまり動物好きではなかったものの、ひょんなことから犬を飼うことになりました。昨年17歳にあとすこしというところで亡くなったのですが、猫みたいな犬でした。呼んでも来ないし、カッテな犬でした。それでも、よく私にダッコされておとなしくしてもいたのです。それに死なれてからタイヘンなことになり(要するにペットロスです)どれほど自分にとって大切な存在であったかを改めて知らしめられた次第です。犬派か猫派かというと完全に犬派で、猫は天敵のようなものでした。それが、ソノ猫のような(柴)犬がなくなった後、猫も受け入れられるようになってまいりました。以前なら考えられないようなことなのですが、まるで「猫又」(年を取って尾が二つに分かれると猫は「猫又」という妖怪になると考えられていました)のようなスゴイ形相の猫でもカワイイと感じられるようになったのです。わたしは、ソレだけ年をとったのかなあと感じている次第でもあるのですが・・・、そのような気持ちのなかでの今回の阪東さんの子猫殺しのハナシは、「いかにナンでもチョッと待てよオイ!」という気持ちを引き起すものでした。最近の靖国神社の騒ぎではないですが、いろんな意見が出る、問題が検討されるというのは、結構なことであると思います。いまのペットブームのなか動物たちのイノチについて真剣に考える機会を個々にもつだけでなく、実際にそれらをコトアゲして意見の成熟を図るのは良いことのように思います。結局のところ、ペットとして飼育される動物たちにとって幸福になるも不幸になるも人間たちのつくる枠組み次第なのですから・・・(当方ブログ既にso-netにもっているのですが、ぽんずさんの記事をトラックバックさせていただきました。ご容赦いただければなによりと存知ます。)

閑居堂様

 お返事が遅れてしまいまして申し訳ありませんでした。

 トラックバックまでして頂いて恐縮です。
確かに言われてみれば今回の出来事は閑居堂さんの仰るとおり騒ぎすぎかも、です。また私の記事に関しては完全に尻馬に乗ったものなので「騒ぎすぎ」のご指摘のとおりかと思います。

 細かく書きすぎて閑居堂さんに手間暇をお掛けしてしまいました。ほんとに、もう、なんと言って良いのか、大汗かいてます。 が、これも仰る通り、私に関してはコメントをつけていただいた事で考えが整理され、私には有り難いことでした。

 閑居堂さんは長年飼ってらしたワンちゃんが去年旅立ったとの事。ペットの死は、どんなにショックでも、人間の葬儀の様なブレークなしで普通を日常を続けていかなければならないのも、余計に辛いのではと思います。ご自愛ください。
 またそう言う辛い状況でお付き合い下さいまして、本当に有り難うございました。

ぽんず様

コメント、また、お気遣いありがとうございます。

ところで、「あほうどり」 はワカルのですが、「うまい」 とはどんな意味なのですか?
「熟睡」の意味ですか?(『日本国語大辞典』を調べました。)

そうであれば・・ノンビリ・ホワンとした味のある、いいタイトルですね。

“うまい”名前ダナと思いました。

わたしの憧れは、ホンモノの飛んでいるアホウドリを見ること、と、泳いでいるジンベエざめを見ることです。動物園や水族館ではなく天然の状態で見てみたいものだと思っています。


閑居堂様

 そうです。熟睡の意味でつけました。
が、漢字にしておけば良かったかと、ちょっと後悔もしてます。食べ物ブログに間違えられそうで(笑)。

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