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2009年6月 3日 (水)

犬も歩けば思い当たる 強引にポゴネタ

 04年の発売当時から読みたかったD・バレンボイム/E・W・サイード 対談集 「音楽と社会」を、漸く読む事が出来ました。
これは、90年代の前半に、ロンドンのホテルでたまたま出会ってから意気投合したサイードとバレンボイムの、5年に亘る公開討論も含めた対談集です。
この二人が企画したゲーテがイスラムへの熱意をもとに(ゲーテは欧州アラブ研究者の文献に頼らず、自らアラビア語を勉強し、文化を研究した)素晴らしい詩集を仕上げた精神にならって名付けた「西東詩集オーケストラ」の活動についても勿論取り上げられていて 寄せ集められた若者達が音楽を通じて理解を深めていく過程や、音楽論など、とても面白いのですが、私は全く関係ない部分で、ポゴレリチを連想してしまったのでありました。
つまりポゴレリチが今やっている事はこの考え方で理解できるのではないかと。

 それはフルトヴェングラーについての部分で、彼の演奏は何故観客の不安をかき立てるのかという説明で、バレンボイムは極端なテンポの揺らぎを挙げ、その揺らぎはギリシャのカタルシスと同等のものを音楽で達成するためで、混沌から秩序に至る道筋の出発点に極端さは必要条件であるとフルトヴェングラーは言っていたとかたります。この部分がポゴレリチに当てはまるのかは私には判りません。ただそれに続いてのバレンボイムのこの発言。

  フルトヴェングラーは音楽を哲学的に理解していた。彼の理解では、音楽というのはなにかの表明ではないし、存在でもない。それは生成なのだ。音楽はなにか重要な一節を表明するものではない。そうではなくて、どのようにそこに至るのか、どのようにそこを去るのか、どのように次の段階へ移行するのか、そういうものなんだ。

それに応えてサイード

 (前略)フルトヴェングラーを聴くとき、前もって定められた方法があるようには思えない。彼の音楽から僕が受ける印象は、それが演奏そのものの中で解決されているということだ。君が「極端さ」と呼ぶものも、作品の始まりの沈黙から終わりの沈黙にいたるまでの進行するプロセスの一部なんだ。パフォーマンスからなにかを抽出して、「さあ、これが公式だ。明確で、何度も同じやり方で繰り返すことができる」なんていう事はできない。 (略) 彼(グレングールド)には「グレングールド流」というものがあり、それは再現が可能なものだということだ-他の人にはできなくても、本人にはできる。(略)

極めて流動性の高いプロセス、君の言葉を借りれば「移行」という感覚だ。それは、その場でおのずから解決を見いだしていくようなものだと思う。そこに予告はなく、プログラムもない。すべてが公演の中に収められているのだけれど、一部の聴衆には受け入れることがとても難しいものなのだろうと思う。

 これはサイードもこの対談集の前に既に表明している「音楽とは流れさるものである」という考え方ではあるのですが、この様に説明されて私はふと思い当たったのです。

 それは数年前、たまたまポゴのCDでモーツァルトピアノソナタk.331を聴いていた時です。ポゴレリチの演奏は私にとって何度聞いても先を見通せないというか、この先どうやって曲を構築するのか見当もつかない演奏者でした。この時も先も見えずひたすら鳴る音を追いかけていき、最期、トルコ行進曲もあと数小節で終わるという本当に最期の最期で、私はふと後ろを振り返ったというか、今までの演奏を思い出したのでした。すると今まで鳴った音がトンネルの様に繋がってきた様子が、はっきりと目に見えた(実際に見えた気がしました)のです。その時私が了解したのは、彼の音は最初の一音の始まりから、全ての音は最期の音を目指し、最期の音が鳴ったら全ては消えるのだということ。そして実際その数秒後に曲は終わり全ては消え去りました。CDであったにも関わらず、音楽の一回性をありありと感じた体験でした。

更にこれを受けてバレンボイムがいうには

 フルトヴェングラーはときどき、すごく念入りに、徹底したリハーサルをやった。でも、彼のリハーサルは毎回やり方が変わっていた。それについては、チェリビダッケがとても明快に説明している。彼によれば、フルトヴェングラーはリハーサルで二百通りもの「ノー」を試みたが、それはコンサートの晩にたった一度だけ「イエス」と言うためだった。つまり、リハーサルをするのは、避けたいことが起きないことを確実にするためだったのだ。たとえば、この箇所で音楽がうつろに響かないように、あちらの箇所ではだれないように、また別の個所ではアクセントがつかないように、というようなぐあいだ。これに対しほとんどの人のリハーサルは、朝のうちに音楽を組み立てておいて、夕方にそれを繰り返すためのものだ。でも音楽というもののいちばんすごいところは、くり返しのできないものだということなんだが。

  ポゴレリチはあるコンサートのリハで、自分のパートのみとオケと一緒の部分とを別の時間に分けて練習するという摩訶不思議なリハーサルをしたという情報を、以前、聞いたことがありました。その時は何故なのか見当もつかなかったのですが、曲をきっちり組み立てることを阻止しつつリハーサルをする為だったとしたら、これほど理屈の通ったやり方はなかったのではと思います。この方法だとオケのメンバーはポゴレリチの音や弾き方を望まないことが起きない程度に掴む事はできても、曲がどうなるかは本番までは判らないのですから。

 これで私の中ではポゴレリチ流れる音楽派はほぼ決定です。短絡な私を笑って下さい(笑)

 意外なところでポゴレリチを発見し、興奮のあまり長々書いてしまいましたが、この本はこれ以外にも、というかこの部分以外の方が、音楽論として、ワーグナー論として(バレンボイムのバイロイト劇場の分析は凄かった)、また原題アメリカの社会論としてもとても興味深いものでした。特にバレンボイムに質問するコロンビア大の学生の型にはまった質問と、それを切り返すバレンボイムの鋭さにはあたまが下がりました。

 ただ私の個人的感想としては、サイードと友人でありながら彼とは正反対にオスロ合意に希望を見いだせていたバレンボイムが

我々(バレンボイムとサイードの事)は同じセム人だ。

と、言い放つ場面。
サイードによれば、アンティセミティズム=反ユダヤ主義は、ユダヤ人と同じセム人である反アラブ人主義に大戦後速やかに移行したとされ(オリエンタリズムに書いてあった)、19世紀に欧州の後進国扱いだったドイツでワーグナーがドイツ芸術の無上性を謳い(つまりは疎外の入れ子状態)、20世紀にはナチの第三帝国まで突き進んだ事、バレンボイムの得意としているレパートリーがドイツ音楽であることを考え合わせると、対談集の原題ともなっているParallels and Paradoxes(相似と相反)の認め合いこそが、我々が過去と現在を乗り越えていく為の光となる様に思えました。

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