慰安婦問題についての覚え書き
朝日新聞が漸く吉田証言を事実誤認と撤回したことで、いろいろかまびすしい昨今ですが、今まで読んできた本から得た知識を覚え書きとして極々簡単に纏めてみました。これは初心者による、初心者のための簡単なまとめです。
Q 強制連行が問題だったのに、今は『広義』の強制とか、話しずらしてるし、朝日新聞のプロパガンダに踊らされただけなんでしょ?
河野談話発表までを並べてみる。ちなみに「挺身隊」と「慰安婦」は長い間日本でも韓国でも混同されていた様ではあるが、ここにある強制連行された女子挺身隊員とは主に日本の軍需工場へ働きに来た人達のこと。その後の調査から今まで語られて来なかった慰安婦の存在が明るみに出てくる。
38年(昭和13年) 国家総動員法制定
39年(昭和14年)「朝鮮人労務者内地移住に関する件」を含む「労務動員実施計画」を閣議決定
半島から内地への文字通りの強制連行が始まる。
これは「募集」「官斡旋」の頃から強制的な人さらいもどきであったことが、帝国会議質疑などで指摘されているが、44年9月からは法的拘束力をもった「徴用」となった。
73年 千田夏光 『従軍慰安婦』出版
83年 吉田証言
87年 韓国、民主化闘争を経て民主化宣言
88年 ユンジョンオク氏福岡博多へ現地調査
90年1月 ハンギョレ新聞に「挺身隊取材記」連載
5月18日盧泰愚大統領訪日直前 女子挺身隊が声明発表
25日 韓国外相、日本政府に鉱山労働などへの強制連行者名簿作製の協力を要請。
6月6日 参院予算委員会で社会党本岡昭次氏が強制連行者名簿作成の質問に関連して慰安婦について質問。
労働省(清水傳雄氏)は「民間の業者がそうした方々を軍と共に連れ歩いていたので調査しかねる」と答弁。
10月 厚労省答弁に反発した韓国の37女性団体が、日本、韓国両政府に抗議の公開書簡を送る。
11月 37の女性団体が「女子挺身隊問題対策協議会」を設立
91年 8月 金学順さん名乗り出る。
電話ライン設置。名乗り出る人多し。
12月 学順さんら三人が三十三人の軍人軍属と共に日本政府に訴訟を起こす。
92年 1月11日 吉見東大教授が防衛庁で慰安婦募集に軍が関与した書類を発見したことが朝日新聞に報じられる。
1月17日 宮沢首相、訪韓の折りに、慰安婦問題でお詫びを表明。
2月18日 国連人権委員会で「慰安婦」問題が初めて提起。
7月 マニラの「アジア女性人権評議会」他は「フィリピン人元慰安婦の為のタスクフォース」を設立。
加藤官房長官「軍が関与したことは否定できない」と談話発表。
8月10日 「挺身隊問題解決の為のアジア連帯会議」には被害国韓国台湾、タイ、フィリピン、香港と加害国日本の市民団体が参加。
92年 7月6日
日本政府は調査の結果 百二十七件の資料を公開し政府の関与を認めたが、「強制連行」を示す資料は見つからなかったと発表。
しかしこの一次調査の資料には警察労働省の資料が一点もなく調査が不十分であると非難される。
93年 8月4日
日本政府、第二次調査結果(公表資料二百三十四点と国内関係者からの聞き取り、談話骨子とりまとめ後、日本政府の誠意の表れだとして、日本政府が要請した十六人の被害者からの聞き取り)と共に河野官房長官による談話発表(談話の内容には被害者からの聞き取り結果を反映していない。下に記した参考文献「検証チーム報告書」を参照のこと)。
年表終わり
慰安婦問題のそもそもは民主化がなされた韓国での調査が発端であり朝日新聞報道より遙か以前のことである。また「日本軍が関与していない」という答弁も反発と関心を引き起こす事になった。その後軍の直接関与の証拠が日本側から続々発見されるにいたり、軍関与を否定出来なくなった後で、日本政府は強制連行についてわざわざ「資料が見つからなかった」と強調した。
吉田証言については昔から吉見教授など研究者から疑問の声が上がっていたし、誘拐の舞台となった済州島では80年代にこの証言に疑義が呈せられ韓国内で新聞報道などもされている。河野談話では強圧的募集、強制的に接客などとは書かれているが、強制連行されたとは書かれていない。吉田証言を元に書かれたものでないのは読めば一目瞭然である。それなのに吉田証言が慰安婦を問題視している人々の唯一の拠り所であるような印象を与え、河野談話を結びつけるのはこじつけであり、吉田証言が虚偽だったことをもって河野談話の撤回、慰安婦問題の免責は出来ない。また「強制連行」や「挺身隊」などの表現に関しては80年代当時、どの新聞もさして表現に違いがなかったし、朝日新聞の吉田清治氏言及回数もほんの数回十数回(16回です。間違えました。申し訳ありません)のみであった。
そして国会議事録を「狭義」「強制」の語で検索をかけると、慰安婦問題で最初にこの言葉を使ったのは安倍総理大臣その人である(追記参照)
Q 強制的に拉致されたのでなければ何が問題なのか。性奴隷という言葉は言いすぎではないか。
旧植民地に於ける元慰安婦女性は、7割弱が事務、看護婦のような仕事と言われ売春とは知らずに募集に応じ、3割弱が役人、警官などが村にやってきて、『割り当てがあるので娘を出すように』と言われやむなく応じ、残りの数パーセントが売春と承知して応募したと証言している。これは韓国と台湾で別の時期に違う団体がそれぞれ聞き取りをした2つの結果がほぼ同じ割合であることから、信用できる数字と考えられている。
騙されて連れてこられた女性達の存在を軍部が知っていた事は日本軍、兵士や憲兵の夥しい数の日記、報告などから確実だが、軍がその業者を処罰し、騙された女性達を帰国させた書類も事例も一つもなく(兵士がカンパして解放した例などはある)、そのまま業者に営業させ、女性達に接客させていた時点で、セックストラフィックに関する近代的な人権を全て棚上げしたとしても、性奴隷であり申し開きは出来ない。ましてや後年彼女達を「売春婦」と呼ぶ事はセカンドレイプ以外の何者でもない。
Q でも、お金を稼ぐ目的で行った人もいるわけだし、何から何まで悪かったというのも不公平では?
日本軍慰安婦制度は日中戦争中から始まり、最初は醜業婦と呼ばれたプロの女性が実態を知って慰安所に来る事が多かったのだが、戦線の拡大による慰安所数の増加と、兵士の性病予防という慰安所設置の第一理由などから、プロではない素人女性の需要が高まったため、就労した時期、慰安所のあった場所により応募した元慰安婦達の背景、慰安所での生活にはかなりの違いがある。
慰安婦はピクニックにも行った(実は軍高官のレクリエーションのため接待にかり出されただけ)、高給だった(日本軍が発行する軍票が大暴落したため額面が大きくなっただけ)、志願した売春婦だった(上述僅か数パーセント)などと、一つ二つの事例を挙げて(それさえデマに近い曲解なのだが)も、その他の事例が免罪される訳ではない。
たとえて言うなら、開業当初は従業員に週一日休ませ、安いとはいえ残業代を払っていた企業が、後年三ヶ月休み無し、一日18時間労働、残業代無しで過労死する従業員が続出したとして、開業当初の例を持ち出して、後年の労働法違反が消えて無くなるわけではないし、昔残業代をもらっていた事を理由に、後の残業代不払いや退職拒否を当然視することはできないのと同じ事である。
また売春目的で応募した女性のみだったと仮定した場合でも、深刻な人権侵害があった。健康を害するほど無理矢理接客させられた夥しい事例の他に、軍と共に行動することで戦闘に巻き込まれ戦死した女性、退却中に動けなくなり置き去りにされた女性(『処置』する様にという通達が残っている)が多いことなど、兵士並みの命の危険に晒された女性も多数いた。
からゆきさんなど、海外に出稼ぎに行った日本人女性の待遇もひどいものではあるが、当時アジアの一等国、遅れたアジアを解放すると胸を張っていた大日本帝国が、それよりはるか昔の民間の悲惨な事例(1907年に売春目的の渡航が禁止された)と同じか、それよりひどい事を行っていた事実、その女性達を兵士と共に戦闘に参加させた挙げ句、後年政治家が「高給取りの売春婦」などと公言するのは、許されるものでは決してない。
Q とはいえ慰安所は必要悪だったのでは?どこの国もやっていたのでは?
日本は急激な戦域拡大で指揮官が不足した。しかし士官を士官学校卒に限定していた旧日本軍は、学校を出たばかりの現場経験ゼロの若造に兵士を率らせたため、めちゃくちゃな作戦がまかり通ることになり、意味のない戦死が増えた。また食料、装備などを戦地で自己調達するという日本軍の遅れたシステムから、深刻な食料・物資不足に陥る部隊も多く、それらと相まって、兵士の不満が爆発、隊の統率が全く取れなくなってしまう事例が頻発した。戦場で規律が緩み自暴自棄になった兵士らによる略奪・放火・強姦が多発したため現地での日本軍への反発が非常に強まってしまったこと、また強姦によって性病になる兵士が増え、戦力不足に陥りそうになったために軍幹部が考え出したのが慰安所だった。これは現場からの報告と要請(兵站の充実、兵士の休養の確保、きちんとした上官の育成など)を完全に無視した付け焼き刃の対策でしかなく、強姦数は慰安所を作ってからも減ることはなく、むしろ増えてしまい、慰安所の存在が強姦の引き金になったともいえる有様となった。
慰安所が出来る前に、惨状の中でもきちんと統率された立派な部隊が数は少なくともちゃんと存在した(笠原「アジアの中の」)ことを考えれば、上述の通り既に国内法に抵触し法の支配を踏みにじる暴挙であった事を除いても、慰安所など造らず別のまともな対策をとったほうが、兵士にとっても進軍した現地の住民にとっても、慰安婦とされた女性達にとっても、どれだけ良かったかしれない。
Q 慰安婦についてはわかった。しかし20万人なんて誇大な数は訂正すべき。
日本軍慰安婦の数が過大だと考える人は東郷和彦『歴史と外交』を読んだ方がいい。元となる条件は大体同じで、常識的な接客数と期間で計算したら20万人に なったのと、潰れるまで使い倒したので5万人で済みましたという違いだけだとよく分かるから。少なければ罪が軽くなるという話ではないのよ。
https://twitter.com/ponzoo/status/487449185080193024
この本で東郷氏は秦氏と吉見教授の積算根拠は大体同じで、その違いはどこから来ているのかを説明し、日本政府は数を問題にしない方がよいと忠告してる。
Q 日本の歴史の汚点にこだわるのは自虐的でしょ?ほじくり返す意味はどこにあるの?
上述した通り、無理な進軍、未熟な上官、きちんとした兵站を整えず食料や必需品を戦っている兵士達に自己調達させるという前近代的な遅れた軍の方針に対する、兵士の不満のはけ口として軍慰安所は設置された。
進軍に次ぐ進軍で碌な休みも与えられない兵士が、最初こそ利用するのを躊躇いながらも慰安所でのひとときを「生きていると実感できる唯一のひとときだった」と述懐しても無理はない。その相手が騙されたり強圧的に連れてこられた女性達であっても、兵士達がその事実に目をつぶるか、ここでお金を稼いで幸せにしているとの思い込んだとしても、私には責められない。
本当に責められるべきは兵士という一人の人間をそこまで追い込んだものの方だ。
有名なスマラン事件ではオランダからの非難を受けた時こそ軍部が士官を処罰したが、その士官は事件直後から順当に出世しているし他の下士官も出世している。これは軍に本気で処罰などする気がなく、国際世論に配慮して形ばかりの処分をしたと思われても仕方が無いと思う。
そもそも東南アジアでは女性達を無理矢理拉致をして接客させた事例が多いのだが、指揮官が処罰されなかったものが多い。これをみれば旧日本軍が慰安所の女性に対して一片の人権も考えていなかった事を物語ってい る。そしてその人権感覚の延長線上に数多くの日本軍兵士が置かれていた。日本軍慰安婦制度を不問に付し忘れ去ることは、数多くの日本軍兵士の置かれた悲惨な状況も忘れさり、その状況をつくったものを不問に付すという事になる。
追記
中曽根元首相は衆議院時代に書いた「二十三歳で三千人の総指揮官」という文章の中で
その後、バリクパパンに進入した。
「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。………」
と書いている。ご本人はその若さで三千人の総指揮官に任ぜられた事を誇っておられるようだが、進軍先の現地市民の反発に困り果てていた旧日本軍の現場を考えない無茶な人事の一例ともいえる。
【追記2】
2014年 10月3日
衆議院予算委員会での辻元清美議員の質問に対して、安倍晋三首相は
「河野官房長官談話」の作成過程に関し、「吉田清治氏の証言は客観的事実と照らしてつじつまが合わなかった。他の証言者の証言と比較して信用性が低かったことから『河野談話』に反映されなかった」と述べました。
答弁文字起こしリンク
「狭義」か「広義」か
安倍首相が以前「いわゆる従軍慰安婦というもの、この強制という側面がなければ特記する必要はない」などと持論を展開したこと(140 - 衆 - 決算委員会第二分科会 - 2号平成09年05月27日)と官房長官談話を踏襲することの整合性を問われて
「いわゆる狭義の上での強制性という問題がありました。それは狭義の強制性ではなくて、広義の意味での強制性について述べているという議論もあったわけでございます」と述べている(165 - 衆 - 予算委員会 - 2号平成18年10月05日)が、
国会質疑でこれ以前に「狭義」か「広義」かの論戦があった記録は私には見つからず、それより以前の国会答弁では、「強制連行の定義」について
○政府委員(清水傳雄君) 強制連行、事実上の言葉の問題としてどういう意味内容であるかということは別問題といたしまして、私どもとして考えておりますのは、国家権力によって動員をされる、そういうふうな状況のものを指すと思っています。(118 - 参 - 予算委員会 - 19号平成02年06月06日)と述べられている。
『この記事での参考文献』(取りこぼしもあるかも知れません)
従軍慰安婦 (岩波新書) 吉見 義明
共同研究 日本軍慰安婦 吉見 義明、 林 博史 (1995/8)
アジア・太平洋戦争―シリーズ日本近現代史〈6〉 (岩波新書) 吉田 裕
アジアの中の日本軍―戦争責任と歴史学・歴史教育 笠原 十九司 (1994/9)
「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実 吉見 義明、 川田 文子 (1997/7)
歴史の事実をどう認定しどう教えるか―検証 731部隊・南京虐殺事件・「従軍慰安婦」 笠原 十九司、吉見 義明、渡辺 春己、 松村 高夫 (1997/10)
慰安婦と戦場の性 (新潮選書) 秦 郁彦 (1999/6)
歴史と外交─靖国・アジア・東京裁判 (講談社現代新書) 東郷 和彦 (2008/12/17)
「慰安婦」問題が問うてきたこと (岩波ブックレット) 大森 典子、 川田 文子 (2010/2/6)
日本軍「慰安婦」制度とは何か (岩波ブックレット 784) 吉見 義明 (2010/6/10)
「慰安婦」問題とは何だったのか―メディア・NGO・政府の功罪 (中公新書) 大沼 保昭 (2007/6)
参考リンク
慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html
朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する内閣官房長官発表 http://www.awf.or.jp/6/statement-01.html
アジア女性基金 http://www.awf.or.jp/guidemap.htm
アジア女性基金内慰安婦関連歴史資料 (政府による、河野談話の元となったいわゆる従軍慰安婦問題についての調査結果 第一次調査と第二次調査をまとめたもの pdf版 全5巻 総頁数1947 第五巻に各巻資料の概要あり)
Fight for Justice——日本軍「慰安婦」—忘却への抵抗・ 未来の責任
日本の現代史と戦争責任についてのホームページ 林博史研究室
外務省慰安婦問題に対する日本政府のこれまでの施策
河野談話作成過程等に関する検討チームによる『慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯』pdf(平成26年6月20日) (元慰安婦女性達からの聞き取り以前に談話の骨格は出来ていたこと。それまでの聞き取り書で十分だったにも関わらず、女性達の精神的負担を考慮して聞き取りを反対する支援団体を押し切って日本政府による聴き取りを強行したのは『問題に真摯に対応する日本政府の姿勢』をアピールするだけのものだった等々、まずはご一読を)
吉田証言と河野談話の関係についての辻元清美議員の質問と首相答弁を報じた「赤旗」記事
従軍慰安婦問題リンク集
バリックパパンの日本海軍322基地に「設営班慰安所」 1942年3月11日、中曽根康弘主計中尉の「取計(とりはからい)」で開設 防衛省防衛研究所所蔵の文書に記述
Apes! Not Monkeys! はてな別館(戦時性暴力タグ)
2013年06月13日(木)「歴史学の第一人者と考える『慰安婦問題』」(対局モード) 上記ラジオ番組書き起こし 『ラジオ批評ブログ――僕のラジオに手を出すな!』様
そのほか沢山のサイトに書籍「従軍慰安婦資料集」からの転載があり、その数々を参考にさせて頂きました。
歴史修正主義」ブックマーク
『(慰安婦問題を考える)挺身隊との混同、韓国では 韓国在住の言語心理学者・吉方べき氏に聞く』
合わせて読みたい
餓死(うえじに)した英霊たち 藤原 彰 (2001/5)
日本軍戦死者の6割は戦病死という名の餓死であった。原因は日本軍の兵站を無視した無謀な作戦によるものという告発。著者は旧陸軍出身で中国大陸での戦闘体験もある歴史学者藤原彰一橋大学教授
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