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2014年12月の2件の記事

2014年12月31日 (水)

よいお年を

 皆様こんばんは。

 年末に風邪を引き、お節は超手抜きで行こうと考えていたにも関わらず、ごぼうのタタキ作りで死にかけたワタクシでございます。もう当分ごぼうにはさわりたくありません(涙)

 思いもかけぬ災害が幾つも起こった上に、


チケットを買ったのにポゴのコンサートに行けなかった


私にとっては悪夢のような年でしたが、それも今日が最後の一日となりました。

 先程、母がぽつりと「ずいぶんと穏やかな気がする大晦日だこと」と申しておりましたが、地味ではあっても穏やかな日々が途切れもせずに続いていくのが一番よいことなのではないかと、鼻水を流し続けながら思う次第です。

 2015年は穏やかな年になりますように。


 


 今年の〆曲はFBのお友達経由で知ったクリスマスの曲ですが、暖かでほっと深呼吸できる曲だったので(グーグル翻訳を信じていいのだろうか・・・;^_^A)。


 本年は本当にお世話になりました。皆様、どうかよいお年を。

 

2014年12月17日 (水)

お父っつぁんと空襲

 とあるツイッターメンションから思い出した事です。

 五年ほど前、私の父が末期癌で入院中の事でした。当時父はオキシコンチンという痛み止めを服用しており、うつらうつらとした状態が続いておりました。 
ある晩いつものように病室に行くと、父は私の顔をみるなり
「お殿様の葬式には代わりに行ってくれたんだな?」と真剣な顔で尋ねるのです。
お葬式って何?お殿様っていつの時代?と狐につままれたような私に向かって城主の葬儀についての生々しい見てきたようなディテールを述べた後、
「三人も迎えに来てくれたのに行かない訳にはいかないし。ほら、まだそこにいる」と、病室の白い壁を指さして言うのです。

 父のこの言葉は、改修中で古く薄暗い病室内で、帰るためには長くて暗い病棟の廊下と、やはり暗くて遠い臨時駐車場への道のりが待っている私を恐怖のどん底に突き落とすのに十分なものでした。あの夜、葬式談も聞いた振りだけして必死で用事を片づけ、廊下と通路を早足で駆け抜け、仮設外灯だけの薄暗い駐車場と小道から、明るい通りへ車を乗りだした時の安堵感は今でも忘れられません。

 オキシコンチンにはせん妄という副作用があるのですが、この副作用が出る確率は極々少なく、父のこの症状も副作用のせん妄ではなく、寝ぼけた状態になったために今まで抑えてきた死への恐怖が夢の様に現れて出たものだと思います。
ネットなどに出ているご遺族の体験談も「死んだ人が会いに来た」とか「お墓がどうこう」と死に関係するものばかりでした。癌はじわじわ体の機能が落ちていきますから、何が起こってどうなって死に至るのかをはっきり説明されていないと、仮に病名を宣告されていたとしても患者は恐怖を抱くのではないかと思います。城主の葬儀についての詳細も古文書をやっていた父なら知っていても不思議ではないので、ここまでなら気味が悪くても想定の範囲内でした。

 それから数日後、この日は午後二時頃に病院に着いたのですが、部屋の前まで来ると、父が何か絶叫している声が聞こえてきました。
慌てて部屋に飛び込むと父は「空襲だ!」「空襲だ!」「逃げろ!焼け死ぬぞ!」と叫び続けているのです。幸い二人部屋のもう一つのベッドは空いていたのですが、さすがにこれを放置は出来ません。しかし、父は松本出身なので地元で空襲に遭うわけもなく、なんの空襲を言っているのかわかりません。記憶をひっくり返して思い返したところ、ただ一度だけ、たった一度、東京大空襲について言及したことがありました。駄目で元々と思いつつ、
「ここは病院だから大丈夫。ジュネーブ条約、陸戦ニ関スル条約で病院への空爆は禁止されているから。ここにいる限りは大丈夫。万が一延焼してもここなら人も多いし消火器もあるから燃える前に逃げられる。ここにいる限り大丈夫」と言ってみたところ、
「そうか、それなら安心だ。」と納得して静かになってしまったのでした。
その安易すぎる納得に「マニラ空爆は?バグダッドは?ガザは?」と内心突っ込んでしまった私ですが、私がわらをも掴む思いで言った言葉に、父もわらをも掴む思いですがったのでしょう。藁でもすがる心境がちょっとショックでした。

 父は終戦の年の八月、千葉で地引き網をしていた事以外は軍隊の事を私達家族には全く話さず、父がどこの連隊にいたかを知ったのも、私がたまたま目にした父の年金請求書類に軍歴が書かれていたからでした。近衛連隊の少尉と知った時の若き乙女の私のショックはいかばかりか。うちのおとっつぁんが伊集院少尉と同じなのか!!!世の中間違ってる!!!
私に気遣った訳では絶対にないと思いますが、父は本当に軍隊時代の事を話しませんでした。東京大空襲についての父の話というのも、改まって話したものではなく、テレビの大空襲特番か何かを家族で見ている時にふと漏らした一言でした。

「お父さんはな、この時軍隊にいて上野の山からみていたぞ。大変な燃え方だった」と。

その言い方は軽く、さらりとして、口の端に笑みがこぼれそうな感じでさえあったので、この大惨事をここまで軽く話せる父の薄情さに当時の私はどん引きしました。しかし病室での父の絶叫を聴いた後、私は父が恐怖のためにあんな話し方しか出来なかったのだと思い至りました。安全な山の上から目撃しただけなのに、家族にも話せないような恐怖。

 父は召集されても外地にも飛ばされず、終戦の年は敵軍を迎え撃つために海岸に結集したものの、武器もなく魚を捕って終戦を迎えた、あの年代としては非常に運の良い人間でした。その父でさえ抑えていた恐怖があんな風に吹き出るものなら、空襲を逃げ回った人々(母の伯父一家は焼け出されました)、外地で地獄をみた人達はどんな恐怖を心に秘めていたのかと、この後暫し考え込んだのでした。
兵隊だけではありません。母は女学校を繰り上げ卒業したのですが、母の下級生は勤労動員で行った工場を爆撃され、殆どが亡くなってしまったクラスもあったと聞いています。空襲に怯えながら工場で働いていた女学生達は、戦後普通に幸せに、生き残った事を喜びながら暮らしながらも、死の前に、意識が朦朧とすれば吹き出してくるような恐怖を抱えて生きていたのかも知れません。


 胸の奥で押さえつけていた恐怖が消えたせいか、単なる病状の過程だったのか、父はその後意識もはっきりし、食事も摂れ、話も出来る穏やかな四日間を過ごした後、癌性昏睡になり、三日後、空襲の絶叫から一週間後、眠ったまま息をひきとりました。

生き延びた人間が抱える恐怖もまた戦争の残す傷跡なのだと、戦争について語るにはそれも含めなければならないし、またその事を忘れてはいけないと、とある太平洋戦争賛美メンションをみて思った次第です。


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