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カテゴリー「映画・テレビ」の18件の記事

2017年11月26日 (日)

オンデマンドみるみる記2 真田丸の秘密

 前記事で「真田丸は言葉で説明している」と書いてしまったため、その根拠を書きたいと思います。とはいえ、オンデマでは半分観たところでタイムアウトになってしまいましたが(^_^;)

 言葉で説明する役割の立役者は長澤まさみ演じる架空の人物「きり」でしょう。最初の頃ネットで「うるさい」と不評だったきりですが、この人物こそ、脚本家の冴えを見せる造型だと今なら思います。
脚本はきりのおしゃべりを借りて巧みに状況説明をするのです。
源治郎が誰を好きなのかとか、祝言の時に人を殺すなんて残酷だとか、一応誰でもそう思う事ではありますが(だからネットではうるさがられた)、ここだけは視聴者に押さえて欲しい部分を言葉で述べさせるので、一杯機嫌の視聴者であっても迷わず受け取る事が出来る仕掛けになっていました。しかも無用な失敗を犯して、人質を救出に来た主役・真田信繁に傷一つつけることなく、ちゃんと捕らえられる事に成功させます。これを不測の事態で救出作戦を失敗させたら「信繁って駄目なやつ」と思う人が必ず出ます。

 おしゃべりなきりではありますが、豊臣秀次が登場すると彼女は途端に口数が少なくなり聞き役に回ります。源治郎の話だってまともに聞いた試しのない彼女が突然寡黙になるのは、相手が太閤の甥だからではなく(多分成長したわけでもなく)、秀次の言葉を引き出す役割になったからです。聴き手が出来たことで普通ならもっと遠回しで表現しなければならない秀次の胸の内を、視聴者に間違いようのない手段で伝える事ができます。ネットでは秀次うざいなどと言われてましたが、簡単に確実に視聴者に伝えるには本人の口から話させるのが一番かと思います。去年だったら私も拒否反応を起こしたと思いますが、今年入り組んだ筋立ての直虎を観た後なので、わかりやすさのありがたみも理解出来ます。

 今回オンデマで続けて視聴したので判ったのですが、「真田丸」というのは滅びの美学をテーマにしているのだなと思いました。武田の滅亡シーンから物語が始まり、真田昌幸に謀られて磔にされる高坂昌元、沼田城の攻防でさえあまり顔を出さなかった北条氏政に至っては、豊臣の小田原城包囲で突然露出が多くなり、ほぼ出ずっぱりの2回分放送の後切腹になりました。真田家の人間が直接関わるエピソード以外は、滅んでいく者達に焦点が当てられていると言って良いと思います。
大阪城ではわざわざきりを聞き役にして秀次の胸の内を語らせ続けているので、27回以降は秀次の滅びが壮麗に描かれると思います。ちょっと楽しみなのでお正月にオンデマ契約して観てみたいと思います。

 滅びの美学、その描き方は美しく哀しく重いのですが、あまり後に引きずらせない工夫もちゃんとしてあるんですね。北条氏政は戦のない平和な時代など嫌だと言って切腹するわけですが、敵の実力を(多分その出自から)見誤っての滅亡ではなく、やんちゃをいって満足の切腹にしてしまいました。不意打ちの恐怖から風呂にも入れず眠れもしない描写を上手く緩和して、重いんだけど引きずらずに済む書き方だったと思います。
滅び方ではありませんが、去年私が観たときに拒絶反応を起こしたシーンに、高畑淳子演じる薫が夫真田昌幸に向かって、人質だった木曽義昌の子らが磔にされた事を仰々しく述べるくだりがありました。当時私はあの戦国時代に人質処刑で騒ぐのはおかしいだろうと思ったのですが、今年の「直虎」で、屋敷に訪ねてきた兄である南溪和尚に、今川の人質となった佐名が「ようもようも顔を出せましたな」と吐き捨てるシーンを見せられ、殆ど書かれていないにも関わらず人質の哀しみがぐさっと胸に刺さって(その後の展開で佐名は夫婦で自刃させられますし)重苦しさに息の根を止められそうになった身としては、薫の軽さに救われる思いをしたのではありました。


 映画や自分で選ぶネットテレビだと、一話の中にどれだけ話を詰め込んでも、観る方は喜んで咀嚼できますが、定時で流れるテレビ番組はあまり詰め込まれると困る場合もあるのかなと「直虎」と「真田丸」を見比べて思いました。今年「直虎」を観たからこそ判る「真田丸」の面白さだと思います。

 みなさまも、時間があったら「真田丸」をもう一度観てくださいませ。

2017年11月20日 (月)

オンデマンドみるみる記1 政次の謎

 前記事で書いた経緯で、オンデマンド見放題パックで晴れて「おんな城主直虎」を第1回から観ることが出来ました。
先の展開が判っているので、「ああ、この子がああなって」とか「このおっさんの早まった行動が」とか、感慨が深すぎて観る度に号泣してしまいました。もう暇さえあれば観てしまう状態で、観た回さえ見直してしまいました。いや~、面白かったですわ。

 実は今回初回から観るにあたり、どうしても確認しておきたいことがありました。それは、高橋一生演ずる小野但馬守政次が、最初の方で悪役だったか否かです。
何故とはいうに、たまたま観た5月12日放送の「鶴甁の家族に乾杯 静岡編」で、ゲストの高橋一生に向かって「あ、悪役だ!」と叫んだ初老男性がいたのです。その頃は既に政次が悪役だと思う人は少なかろうという展開でしたが、ロケ日と思われる4月上旬の放送回をサイトで確認しても、その当時さえ政次を悪役と思う人はいなさそうな状況に私には思えたのです。というか、ネットでは「そんな事したら味方だってばれるぞ」みたいな書き込みが多く、皆悪人の振りをしている小野政次の心中を察しては楽しんでいたからです。
なので私が見損ねた回で政次は悪い事をしでかしたのかなと思ったのでした。奥山朝利のおじさん殺しちゃうから、それかなと。
しかし、今回殺した回を見ても全く悪役とは思えず、なにゆえあの御仁は生・高橋一生に向かって「悪役」などと言ったのか、ちょっと判りませんでした。 

 その後「直虎」浸りの日々を送る中でふと思い当たったことがありました。
そもそもこのドラマは伏線がとても巧妙なのです。見始めた頃時間が取れなくて、6時からの早虎を半分位みて8時から本虎を中座しながら観ることが良くあったのですが、同じシーンを2度観ると最初に観たときに気がつかなかった事に改めて気がつくということが沢山あったんですね。そんな事があって私は観念してしっかり観るか録画するかにしたのですが、日曜夜8時って、お風呂上がりに一杯やりながらテレビを楽しむ時間帯ではないですか。家族とおしゃべりしたりして。そんなのんびりなくつろぎの時間に、ある回で敷かれた伏線が十数回後に顕わになる様な筋書きや、ちょっとした所作で台詞と正反対の内面を表す演技を、見抜けという方が無理かもしれないと思いました。
思い返せばあの衝撃の33回が終わった時、「それで政次は悪者だったの?良い者だったの?」と一緒に観ていた父親から訊かれたというツイートが、高橋一生の演技力を示すものとしてRTされていましたが(その時は私もそう思いました)、今考えると日曜8時のくつろぎ時間にお父さんがドラマの為に割り当てていた脳内処理キャパを、ドラマの内容が越えていたことがそもそもの原因だったのかも知れません。

 私は元々筋の入り組んだ手の込んだものが好みなので、日曜日には体調を整えて必死で観ました。視聴に力を入れすぎて大体月曜日はぐったりしてしまい、ここまでして観る自分は馬鹿ではないのかと思った事も何度もありました。それでもこの面白さは手放せません。でも忙しかったり、その時間帯はゆっくりくつろぎたいと思う人たちが視聴を離脱する事は十分あり得るし、その結果視聴率が奮わないのかもとも思いました。去年観ていなかったので今回オンデマで観た「真田丸」は巧妙に言葉で背景説明をしていました。その分ドラマ内の情報量(伏線など)は減ると思いますが、団らん時に楽しんで観るにはとても親切な作りだったのだと思います。勿論少ない伏線(直虎と比べれば)を上手く際立たせてがっつり観たい派も満足させた手腕は見事です。
でも観疲れて翌日ぐったりしてしまうドラマも私は好きなんです。
一瞬も気が抜けない展開で、観ながら過去回を思い出し、仕込まれた伏線を探り続けなければならないドラマは、受け身で観るというよりは、選んで視聴するネットテレビ向きなのかも知れません。でも地上波それをやったらいけない理由もないと思うんです。今は録画もオンデマンドも、数年後の再放送さえあるのですから。更にどの曜日、どの時間帯であっても、ドラマ視聴に掛けられるキャパも好みも人それぞれなのですから、視聴率の縛りから業界はもう解き放たれた方が良いのではないかと、番組は作りの善し悪しを評価基準にするべきかと思うのです。今更ですけど。

2015年11月20日 (金)

アルゲリッチ 私こそ、音楽!

 一年前に観た映画の感想を今頃書きます。もうほとんど忘れてしまったのでDVDでも見直してから書いた方がよいとは思うのですが、なかなかそれも面倒で(^_^;)

 去年の11月、シネコンでの上映期間になんとか滑り込みで観ることが出来ました。「あの」マルタ・アルゲリッチを、彼女の娘さんであるステファニー・アルゲリッチがドキュメンタリーにしたものです。これはステファニーちゃん(なぜかこう呼びたくなる)が生まれてから何千回と聞かれたであろう「マルタ・アルゲリッチが母親ってどんな感じ?」という問いに対する彼女なりの答えという気がします。私が邦題をつけるとしたら「私のママはこんな感じ」原題は' Bloody Daughter'


 冒頭は監督である三女ステファニーの出産シーンから。病室でもマルタには仕事の電話がかかってきたりと忙しそうなのですが、このドキュメンタリーの中でマルタアルゲリッチは、列車の中でサラダのパックを食べていたり、リハーサル中に打ち合わせをしながらコーヒーとビスケットをつまんでいたりと、まともな食事シーンは殆ど無く、主に移動中に食事を摂っていました。演奏家の生活がここまで過酷だとは私夢にも想像していませんでした。

 映画はそんな過酷な生活をする『あの』大ピアニストを、ホテルの寝室まで追跡して撮影したりしてしまうのですが、これで彼女が少しは理解できるなどというアテは早々に外れます。最初の方で出てくるインタビューで、彼女、マルタアルゲリッチは真剣に説明している様に見え、私も真剣に聴き取るのですが、話の最後に彼女から「言葉で幾ら言っても分からないのよ」と言われ、煙に巻かれた気分に陥ります。と同時に言葉の説明だけで赤の他人が誰かについて簡単に理解できる筈もないと妙に納得もしてしまうのです。

 このインタビューの話し方が、彼女一流の相手を煙に巻くやり方なのかどうなのか、私にはわかりません。映像をみても、アルゲリッチは色んな物事に真摯に対峙しようと試みている風ではあるのですが、フランクに見えてひょっとしたら壁があるのかも知れない。監督のステファニーも、ナレーションで必死に説明するのだけれど、自分の母親を説明するためではなく、母親のわかりにくさを皆に知って欲しくてメガホンを取ったのではと思うくらい、理解できそうで理解しにくい。

 私はこの映画を観ていて図らずもイングマル・ベルイマン監督の「秋のソナタ」を思い出していました。この映画はイングリット・バーグマン演じる著名ピアニストとその娘の確執を描いたものですが、娘役のリブ・ウルマンが後年インタビューで苦々しく「キャリアを築いた母親は、男性からはああ見えてしまうのでしょう」と語らざるを得ない程、母親に厳しい映画でした。あれから数十年、「秋のソナタ」よりこの母親(マルタ)の方が数百杯も波乱に満ちていたにも関わらず、三人の娘さん達も映画(秋ソナ)より遥に大変だったにも関わらず、ステファニー自身が「この映画は和解への試み」であると明言しているにも関わらず(公式サイト監督談)、世界的ピアニスト、マルタ・アルゲリッチとその娘達のドキュメンタリーは、何故か明るく、瑞々しく、愛情に溢れたものとなっていました。

 とはいえ、長女リダが養女に出された件で「愛情深い母がどうしてそんな事をしたのか、何度説明されても理解できない」と話を打ち切ってしまった時には、ちょっと待て、ドキュメンタリーなのだから出来事の説明くらいしたらどうだ、幾らなんでも「養女に出ました。理由はわかりません」はないだろうとさすがの私も思いました。でもよく考えたら家族間でも判らない事柄を、時系列だけ並べても赤の他人に理解できるはずもありません。こういう部分をねちねち描くと「秋のソナタ」になるのでしょうが、皆が多分苦労して乗り越えようとしている事柄をわざわざ蒸し返して、確執を生む必要もありますまい。起こってしまった事はもう変えようがないのだから。

 冒頭の出産は、日本でデュトワとコンチェルトを演奏する予定を、直前になってアルゲリッチがキャンセルして駆けつけたものです。
このキャンセルについて、アルゲリッチは

「皆様をがっかりさせてしまうことはよく分かっているのですが、私自身3人の娘を生んだ者として、新しい命が生まれる非常に大切な瞬間を家族と分かち合うことは大切なことなのです」

と述べています(リンク) また私の記憶違いであったかも知れませんが、別のインタビューでアルゲリッチはそれまで孫の出産に立ち会ったことがなく、もしこの時を逃すと永遠に娘の出産に立ち会うことが出来ないかもしれないと気づき、公演を急遽キャンセルしたとのことでした。

 映画の最後で、母親と三人の娘、そして孫が一同に会して、草の上でペディキュア大会(ピクニックの余興か?)をします。娘達は里子に出されたり、妹のおむつを替えたり、母親の演奏に付き添って緊張のあまりどっと老け込んだり、「(ピアニストになるのは)やめた方がいい。母親には絶対に勝てない」と言われたり、コロンビア大学で博士号を取った後どうしていいか途方に暮れたりと、母親共々決して平坦な人生ではなかったのですが、それでも青空の下和気藹々とおしゃべりに興じていて、色々あってもこんなひとときが持てるならそれで十分ではないかと、かつて母親ファニータに巻き込まれた娘としてのマルタも含め、それぞれが納得しようとしている様に思えました。

 Bloody DaughterのBloodyは、「血まみれの」とか「ひどい」という意味ですが、映画などを観ていて、この形容詞がboy やdaughterの前につけられた場合、ニュアンスとしては「もう、手に負えない子なんだからっ!」という感じで、困った感じ半分愛情半分という表現が多い気がします。


 音楽というよりは家族のお話です。子育て中の若いお母さん方が観ると、肩の力が抜けて少し気が楽になるのではないでしょうか。

 
 「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」公式サイト(リンク

この映画の参考になるかもしれない拙ブログ記事「子供と魔法と温泉と」

 蛇足
 シネコンの音響って良くなっているんですね。アルゲリッチがピアノを鳴らした時あまりにも音が良くて鳥肌が立ちました。この音響ならオペラのライブビューイングも観る価値ありです。こちらのシネコンではライブビューイングやってないけど(T_T)

2011年3月24日 (木)

エリザベス・テイラーさん亡くなる

 女優のエリザベス・テイラーさん(79歳)が亡くなったそうで・・・

 リズ・テイラーと言えば、大人になって色々見直した女優さんの一人です。
彼女は私が物心ついた時の彼女は、何回もの結婚歴の他にも、顔立ちも衣装もケバいかなり怪しいオバサンだったのですが、大きくなって観た昔の映画の彼女は実に美しかった。美女ってこう言う人のためにある言葉かとしみじみ思ったものです。

 またハリウッド俳優の出演料が天井知らずになりつつあったとき
「もし、この私に出演料○○万ドル(具体的な数字、忘れたけど)を出す大馬鹿ものがいたとして、それを断るほど私は愚かではありません」みたいな発言をしていて、美貌だけではなくシニックなユーモアセンスがあることもしりました。

 更に、マイケル・ジャクソンが児童虐待で大バッシングを受けたときの彼女の態度にも感服しました。
彼女が徹頭徹尾マイケルを擁護したその理由もこれまたすごく、昔彼女が若気の至り(彼女自身が自分がバカだったと形容した)から妻子あるエディ・フィッシャーと駆け落ち同然の結婚をした時(当時フィッシャーはデビー・レイノルズと結婚中で二人の間にはキャリー・フィッシャーがいた)、友達という友達が彼女に背を向ける中で、唯一人マリリン・モンローだけが彼女と口をきいてくれた経験を語り、それ故苦難の中にいる友達を見捨てることは絶対にしたくないと語っていました。 
マイケルだけではなく、モンゴメリー・クリフトが晩年零落してしまったときも、最後まで交流があったのは彼女だったという話です。ただきれいな顔をしたお人形のような女優さんではなかったのです。

 しかしその美貌故、正当な評価を受けられなかった様でもあります。
淀川長治さんがブロードウェイで彼女のお芝居を観た時、彼女の演技は本当に素晴らしいものだったそうです。しかしあまりにも彼女が美しすぎたため、劇場からでた時、演技のすばらしさではなく彼女の美しさしか頭の中に残らなかったのだそうです。


 「バターフィールド8」は好きじゃないと語った彼女。私は美貌だけではなく演技力と精神をも、私は心に刻んでおこうと思っています。

2008年9月13日 (土)

スカイ・クロラは買いです

 『スカイ・クロラ』観てきました。地獄の前半も含めて私には買いでした。

 前半は死ぬほど退屈です。同じ背景が何度も何度も繰り返し、何を狙ってそうしたかは判るけれど、その事実についてはおくびにも出してこないので、脳味噌が途中から悲鳴を上げ始めました。
また芝居がかったしゃべり方も辛い。ど下手な学生劇団がシェークスピアのテンペストか何かを小難しく仕立てた感じ。何なんだ、この棒読みは!と叫びそう。
一番辛いのは登場人物の置かれた状況(勿論原作なんて読んでない)。明日の事が全く考えられない上に、今がどうなっているかもあやふやな(繰り返しの情景はシュールでっせ)状況。これで心が腐っていかなかったら人間ではないという状態が延々と繰り広げられる訳です。だからこれは映画館で観ないと挫折します。映画館に閉じこめられていても、空があれ程美しくなかったら脱走していたかも。側の人は携帯に見入ってました。退屈と言うより防御本能ですね(汗)。

 そして映画は唐突に状況説明が入り、主人公はとある感慨を口にしながら敵機に対峙しに行くのです。その頃には上に書いた手法で登場人物達の境涯にかなり引きずり込まれているので、唐突な割には違和感は少ないです。単に思考力を奪われていただけかも知れませんけれど。

 結局押井守が言いたかったことが判ってきたのが終了二時間後。言いたいことも現状認識も(押井監督だと思うのだけれど、ベネチアに出品する日本の3作品について「老人と子供ばかりで大人がいないのは象徴的」と言っていた筈)、ありがちな上から目線でもないし、自分の夢想を理想像として押しつける類のものではないので、へぇぇ、やるじゃない、と思ってしまいました。
主人公達を遠くから見守る大人達が出ているのも私は好ましかったです。あまりにもこっそりで、あまりにも遠くからの感はありますが、押井監督自身が今の社会に対する責任放棄をしていない様に思えますし(言いたいことはいうけど、自分は関係ないって人多いですからね)。

 日本よりは遥に子供の人権に大人として目を光らせている国からは、この周りの無関心は理解しにくいかもと思ったんですが、監督の言うように「子供が戦争をさせられている事実はある」し、均衡の狭間に閉じこめられ(必要悪、仕方ないという言われ方をされる訳です)、未来を描くことも、それに必要なロールモデルを見つける事も不可能な子供達が存在するのも全くの事実である事を考えれば、極めてグローバルな問題といえる訳です。また意味の見つからない(あるいは見つけにくい)日常を生きる者への応援歌と捉えれば、万人にに対する励ましとしても観ることができるでしょう。
つまり結構普遍的なんです。そして視野も予想していたより広い。そして誰が観ても意味が判る。という事で私は買いだと思いました。

 ただ私としてはこの作品の中のキルドレ達が置かれた状況は、人間の根元を崩すような状態であり、これを敷衍して若者にメッセージを託すならこの設定に対して一片のの批判も出さなかったのはちょっとどうかと思います。励ます為に手足を切っちゃった認識だけはしてもらわないと、みたいな。

 最後に、やっぱり絵が素晴らしいです。あの海、あの空、あの草原。キルドレが崩れていかないのはあの景色があるからかも。海に墜落するシーン(場面的には何ですけど)の海水の描写はすごかった。あの透明感、美しすぎる(涙)。

2008年4月20日 (日)

WAO!ようか

 エスカレーターを上がると、そこは和央ようかだった・・・。

 ほんとにそう見えたんですよ。エスカレーターの真ん前に「茶々」のパネルがでかでかとありまして(汗)。
つまり呉服フロア(古い言い方だわ)で「茶々 天涯の貴妃」衣装展示&販売をしていたんです。全く知らなかったのでもうびっくり。山口美術織物という、映画で衣装を担当した会社が主催したものでした。 

 眞正面には和央ようか本人が撮影で着た、濃い緑色に花輪?模様の織物打ち掛け。向かって左には件の映画パネル、右には映画で使われたのと同じ柄の反物という具合。その奥にはやはり撮影で使ったのと同じ柄の反物や宮内庁用柄の反物?、そしてこれまた和央ようかが撮影時に着用した黄色の小袖が飾られてました。この小袖、そばにあったパネルによると陶器か何かで造った青瓦のミニチュア天守閣を秀吉と一緒に見ているシーンで着ていたものの様です。

 そうか、これがそうなのか!とよくよく近づいて眺めれば、あれ?値札。戻って打ち掛けを見ればこちらには付いて無く、やっぱり見間違いかと戻ってみると

「訪問着 577500円」

 ほんとに値札ついてる~(笑)。しかも訪問着~(笑)。しかもこの値段~(笑)。そして見た印象は、うーーん。

 これ昨日のことなのですが、そして医者帰りにたまたまその上の階でやっている催し物でおかずをゲットしようと考える程調子が悪かったし、そもそも呉服売り場なんて怖くて近づかないので着物の善し悪しを言える身分ではないのですが、もう一声欲しかったな、と思います。袖を通したので多分割安にはなっていると思います(どうしてプレミアをつけないんだろう?)。新品なら70万位かも。でも映画の中で茶々が着るのよ、もうちょっと張り込んで欲しかったです。3ケタに届けばもうちょっと厚みのある生地が使えたと思うんですが。
 
 この訪問着を眺めて、日本の映画産業ってほんとにお金無いんだなとか、川久保玲が「繊維業は頸を絞められて、どんどん技術が消えていく。工場を尋ねてこう言う生地を作って欲しいと言うと、『その機械は先月壊してしまった』と言われる」と言った言葉をまざまざ思い出したのでした。
決して山口織物がそれを作れないなどとトンデモをいう積もりは微塵もなくて、ただ協賛してももっとどどーんと採算無視(当然今回も採算度外視なんでしょうが)する余裕はなく、映画会社も「何億かけました!」と言っても、単品で息をのませる程は掛けられなかったのだろうな、と。

 と、でもよく考えれば陸の孤島と言われる地方小都市の百貨店で「息を飲むほど」凄いものを要求する事に無理があるのは当然ですよね。関西の百貨店では大々的に展示会をしたようで、そちらはやはり皆様息をのまれた模様です。
それから私の体調以外の理由もあった模様です。
だって若いカップルがエスカレーターから飛び降りる様にやって来て
「わー、綺麗!」と言ってましたから。
それに引き替えあんなに格好いいパネルの主が着た着物に対して(確かに着用オーラはありました)引いちゃった私・・・。年は取りたくないものです、はい。フキフキ "A^^;

2007年10月16日 (火)

イノセンス

 2004年、劇場で観たものをTVでまた観てみました。公開当時今ひとつ評判は良くなくて、数少ない誉めた評も、誰の評か失念しましたが、「この祭りのシーンの見事さだけで十分ではないか」というもので、でも画面が小さいTVでも、二度目でも、それでもやはり面白かったのは何故なのか、ちょっと考えてみました。

 もっとも私は士郎正宗の原作を読んだ事がなく、前作の甲殻機動隊と何本かのアニメを見た限りでは、この原作は国家レベルの陰謀、扇情、解いても絶対に真っ直ぐにはなってくれない状況のあやを見事に描いている様に見えるので、怖くて今だ手を出せてはおりません。
だから私の見方はかなり的はずれかもしれないし、士郎作品から見れば押井の解釈は「これはないだろう」という部分があるかも知れないし、原作を読んでみたら私も「これはないでしょ」と思うかも知れません。そういう事を大前提にして、なお語ってしまうと、

 この映画のテーマはプラトンの洞窟を踏襲しているという、あまりにもありきたりな表現を先頭にもってくる自分が情けない訳ですが、勿論そのままではなく、人間とその理想形としての機械の境界がどこまでもあいまいになっても、それが築き上げる世界は、生身の人間だった時と寸分変わらぬ人間の業に支配され、そして何より悪いことは、人間の懸想した概念があまりに蔓延したため、本来の人間が何処にいるのか判らなくなっているという押井流の世界観、と言えるのではないかと思うのです。
勿論この観を言葉で表せる訳もなく、これを表すために押井はデジタル加工した何処までも細かい画像を築き、色、形、構成、全てがその世界観(つまりは押井守の頭の中)を描く為にきっちり使いきり、また逆から言えば、きっちり使い切れるまで頭の中の概念を煮詰め、脳内で完全に(もちろん映画の画像以上に)視覚化、もしくは具体化させた姿勢に心を動かされるのではないかと思うわけです。

 その白眉が祭りのシーンではないでしょうか。この祭が胸を打つのはそれが細かく書き込まれているからだけでは勿論なくて、何処までも飽きることなく上を望みシアワセを望みながら、自らの災いを託すものを自らと同じ形に作ってしまう人間そのものを、山車となり、飛び散る紙切れ(散華?)の形を借りて表しているのではないでしょうか。山車や人形を祀りながら、焼く人間と焼かれる人形の境の曖昧さに気付かずに、ひょっとしたら人形を焼くつもりで自分を焼いているのかもしれないし、焼かれたヒトガタである人形の方が、焼く人間よりずっと人間性を持っているのかもしれないとか、描かれた形の向こうに言葉や形だけでは表しきれないものの存在が厳然とあると思うのです。だから冒頭に挙げた評の様に「これを観るだけでも十分価値はある」訳です。
そして重要なのはこの祭りがエトロフ(作品内の状況と存在するエトロフは無関係と言っていいと思います。何処でも良いが少なくとも主人公達が住んでいる場所とは違う法の狭間という場所です)で行われたということ。この地にはバトーやトグサらを現実と幻想の狭間へ引きずり込んで翻弄するキムの館があり、法の狭間に浮かび、人間と人形を限りなく同一化させていくロボット会社の製造船が停泊しているのです。

 こう書いてみると、ものすごく判りやすいメッセージだと思うのですが、最初に観たときは恥ずかしながらあまり判りませんでした。あのリアル過ぎるエトロフ特区と、平べったいアニメな人物描写との対比とか、さりげなく紛れ込ませた嘘臭い動作(これを見ると一瞬自分がどこにいるのか判らなくなる)など、二度目で判る事が多かったです。
 判るといえば、世界観を補足している大量の引用をゆっくり聞く余裕がありました。その引用の中身は賛成できない部分も多いのですが(引用調べたサイトがあったんですよ。ここでロマン・ロランだって。信じられんわ)、押井ワールドの一端を担っているのは間違いないのでその部分からも考えていくことができます。

 ストーリーは最後にバトーを工場船に単身乗り込ませ、話のクライマックスとエトロフという場所が表象しているものに飲み込まれそうなバトーの戦いを上手く繋げ、そこへ少佐も登場させ、順調にまとめに入るのですが、最後の最後、救出した被害者の口から安直な台詞で状況説明させ、更に100歩譲っても、言うなら独白であろうという心情を全く関係ない相手に対してバトーが述べるという、あまりにも芸のない展開に今回も絶句したのでありました。
概念を表現することに長けると実地を表すのは下手になるのでしょうか。監督の集中力が持つのは一時間半という時間の制約もあったのでしょうが、もうちょっと現実も見ようよ、と思った私でした^_^;


イノセンス公式サイト
 押井守公式サイト
 「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」公式サイト
「引用 - イノセンス関連情報まとめ」サイト
http://freett.com/iu/innocence/quote.html
レンタルサーバの関係でしょうが、スパイウェアとも見なされるJWORDインストールのウインドウがかなりしつこく出てきますので、このサイトへ行かれる方はご注意下さい。

2007年9月23日 (日)

ケネス・ブラナー版 「魔笛」

2006年にモーツァルト250誕生周年を記念して有力オペラパトロンの依頼でブラナーを監督にして製作されたもの。ブラナーはそれまでオペラには詳しくなく製作に三年かかったそうです。

 ブラナーは今までもシェークスピア劇の映画化で、台詞をそのままに建前をざっくり切り取る鋭さ、毒、時代の移り変わりを織り込んだ新しい解釈など息をのむ様な演出をみせてくれるのに、定期的に失敗したりしているので期待と戦きに胸を震わせ観て参りました。期待以上です。毒、諧謔、希望すべてが揃って、しかも映像表現が見事。

 冒頭の吊っている糸を探したくなる鳥の群が飛ぶのどかな花咲く丘。この出来の良くないおもちゃの様な場所で繰り広げられる第一次世界大戦。この人形の様に兵士が次々倒れていく英雄譚もなく美談もない毒たっぷりのシーン(「ヘンリー五世」を思い出す)は、ジーバーベルクの「パルジファル」(すみません。あまりに昔に観たのでこの作品か確信が持てません。冒頭に人形が出てくるので多分これかと思います)に似た異界的雰囲気を濃厚に醸し出しオペラの持つ現実との齟齬を薄めています。ブラナーはこれも観たのではないでしょうか。つまりそこまで研究した様な気がします。

 タミーノとパパゲーノは塹壕の中にいる若い兵士という設定。歌詞は英語。最初パパゲーノのアリアで「ホイサッサ」が消えていた事に不満を感じましたが、その不満はすぐ消えました。言葉が曲に合ってるし、何より韻を踏んだ響きの素晴らしいこと。私英語版の「魔笛」なんて初めて聞くのですが、元々こういう歌詞なのでしょうか。クレジットには訳詞にブラナーの名前もありましたが、ブラナーの訳ならこの言語感覚は賞賛に値するのではと、英語のあまり出来ない身の上で思ってしまいました。
若き兵士タミーノが負傷した所へ三人の侍女が現れる訳ですが、原作の竜は死のメタファー(これが上手い!)になってます。元々死のメタファーなんでしょうか。煙をちょっとだけ吐いて、電球がちかちかするおなじみの竜にこんな意味があるなんて、私は全く気がつきませんで^_^;
 

 映像の凄さにも種類があって、まず曲をイメージした時のブラナーの発想の凄さ。
冒頭のドラゴンはもとより、第二幕のザラストロのアリアのメッセージ性など挙げればきりが無いのですが、こういうシーンを考えつく人の頭の中を見てみたいと思うし、それを妥協無く撮らせたスポンサーの財力(どれだけお金があるのだろう)にも感嘆しました。しかも音楽に合ってます。
次に曲だけでは判りにくい部分への映画ならではの細かい補足。これは夜の女王の実際や、タミーノとパミーナの成長を軍服の色で表すあたりとか。舞台では不可能だったでしょうね、間違いなく。
そしてブラナーの真骨頂と私が思っている「台詞は正統、映像は鋭い切り返し」手法も満載でしかも冴え渡ってます。土砂降りの中で歌う少年の三重唱、人間以外が歌う僧の合唱の、人間の愚かさに対するもの凄い毒。私は最後にとんでもないオチがあるのではと恐怖さえ感じましたよ。オペラでオチを期待するというこの異常事態(笑)。

 諧謔というよりおちょくりを込めているのにそれを悪ふざけにさせないというのは、誰にでも出来る事ではないでしょう。パパゲーノとパパゲーナの大衆性とタミーノ、パミーナの精神性という演じ方を捨てて、どちらも若者という書き方をしても好感を抱きこそすれ、不快感はありませんでした。
このおちょくりで今度は「イドメネオ」などを作って欲しいものです。いや、いっそベートーヴェンの「フィデリオ」とか。と妄想たくましくする私なのです。

 ブラナーは三年間魔笛にのめり込んでいたのではないでしょうか。ここまで考え、ここまでやってのけたのは当に天晴れです。魔笛を見たことのない人でも楽しめるように作ったとブラナーはインタビューで語っていましたが、魔笛を見てない人はオーソドックスなのを見てから映画に臨んで欲しいです。知らなかったらもったいないです。

 最後にあざといかそうでないかぎりぎりの線なのですが、第二幕のザラストロのアリア、戦死者の墓地なんです。その墓碑にはあらゆるペルシャ語やアラビア語と思われる表記も含めて名前が(日本人もかなりありました。松本勉次郎 享年十九才さん他多数。実在の人物だったのでしょうか)あり、それが何処までも増えていくのです。そしてラストは・・・。
希望というのは絵に描いた理想もしくは夢想の類かも知れませんが、歌って何も変わらないだろうけれど、だからといって歌った人間を馬鹿にしてはいけないだろうと思いました。私、思わず歌うかもです。(ちなみにザラストロと夜の女王の確執は、先例がある両者の個人的な過去説を採用しています。その方がラストのテーマを描きやすかったのかも、です。)


 と、書き終わってから新聞評を探しました。
これを読めば私のなど読む必要はないのですが(というか、順序がそもそも逆ですね)
Peter ConradのSunday April 23, 2006 Observer Music Monthly 、制作中にセットに入っての見聞や、インタヴューをしての記事(リンク)です。
 
 出資者はSir Peter Mooresさん(正確にはムーア財団)で、この企画をずっと温めていたのだそうで、最初はアッテンボローに頼むつもりだったとか。
冒頭のシーンはCG使っているそうです。あれまともに撮ったらどれだけお金かかるか判りませんものね。
 脚本はStephen Fryさんの新訳で情け容赦のないarch悪戯っぽい?カプレット(2行詩)などと、ザラストロ役のドイツ人歌手ルネ・パーペの台詞回し部分で書かれています。
ブラナーはフランスにある第一次世界大戦戦没者墓地に行くことからこの作品を始めたようです。

 パミーナ役のエイミー・カーソンは撮影の時はケンブリッジを出たばかり。口を動かさずに歌えるという事で抜擢されたみたいな事が書かれてます。キリ・テ・カナワ、スタッフが聞かせてくれるまで聞いたことはなかったらしいそうです。でも声はよかったです。

 コンラッド氏はGoldsworthy Lowes Dickinsonが1920年代に書いた「魔笛」のエピローグでタミーノが、faithを探し求めてキリスト教世界や仏教世界を行くという事を書き、それについてのEMフォースターの言葉「タミーノとパミーナが受ける火と水の試練は、21世紀のこの苦難を表象(stand for )できるのか、確信が持てない」「モーツァルトがそこまで請け負える事ができるのか」を引き、その後、「魔笛」のテーマとブラナーがメインに据えたテーマについての見解を述べています。


 魔笛 公式サイト(リンク

2007年7月29日 (日)

ハリーポッターと不死鳥の騎士団(映画)

 前記事にもあるように、調子が悪かったので目をつぶったり手で顔を覆ったりしていたのに、なんと感想を書いてしまいます。しっかり観ていなかったのに、やることが我ながらすごいσ(^◇^;)

 映像は、グリモールドプレイス(本部のあるお屋敷)や、魔法省など、質感、ライト、色ともかなり凝っているし重厚で、なかなかのものでした。ラストの戦いのシーンもCGが迫力(あまりアクション物を観ていないので、単に目新しかっただけかもですが)がありました。魔法省からの手紙だって相当の凝り方です。手抜きはしていないんでしょうね。子供向きとも思ってない。偉いぞ!制作者。

 なのに・・・
何なんでしょう、大事なところで外してるんです。
フレッドとジョージが箒に乗ってホグワーツから飛び立つ場面、誰でも快哉を叫びたくなるシーンな筈なんですが、普通に飛び立ってしまったし、最後に起こる悲劇もまたあっさりしていて、ふーーんで終わってしまったし、ハリーが初めてダンブルドアの事を「ヴォルデモートが恐れたただ一人の魔法使い」と言われた理由を実感する、ダンブルドアとヴォルデモートの直接対決も、ダンブルドアがおろおろしているようにしか見えなくて。
確かに心の中でヴォルデモートと戦うハリー、過去の回想が次々フラッシュバックして私はもらい泣きしました。胸にぐさっと来ました。さすが「セックストラフィック」のあの哀れが胸に迫るラストを撮った監督だけのことはありました。他にも色々あって、内面描写はばっちりとは私も思いました。
けど、ハリポタです。こどもが楽しみにする映画なのです。ハラハラドキドキ「も」売りなのではないでしょうか。気持ちは判るけどここまで内面に「だけ」迫られても、と思わずつぶやいちゃいました^_^;
家に帰って、ハリポタマニア(リンク)で知ったのですが、今回今まで担当した脚本家が都合で参加出来なかったのだそうです。ただでさえ前の映画で貴重な伏線が割愛されたりないがしろにされた為、後になればなるほど話を繋げにくくなった上に、更にこの交代というのは作風の変化が急すぎるという意味で作る側にも観る側にも痛かったかもしれないです。

 さて配役ですが、読んでいるとどうしても「アダムスファミリー」のアンジェリカ・ヒューストンを思い出してしまうベラトリクス・レストレンジ役を「眺めのよい部屋」のヘレナ・ボナム・カーターがマニアックな犯罪者風味をたっぷり効かせて怪演しています。この方たしかチャーチルの子孫とか聞きましたけど、すんごい犯罪者(笑)。
アンブリッジ役の イメルダ・スタウトン(「ヴェラ・ドレイク」)。演技力をもの凄く期待していおりました。原作のイメージとはちょっと違いましたが、これはこれで怖かったです。
思わずぴったんこ!と叫んでしまったのがルーナ・ラブグッド役のイヴァナ・リンチ。15000人の中から選ばれたそうで、びっくりしたような目と言い話し方と言い、うそみたいに似ていました。

 と、あんまり観もせず悪口書きました。しっかり観れば相当良い映画かもしれません。ごめんなさい^_^;

2007年7月13日 (金)

ゾディアック

 脳がそうなっているのだから、遊びに行こう!ということでしょうか映画観てました。先週ですが(笑)。

 色々意見はあるかと思いますが、面白かったです。
 ゾディアックと名乗る犯人による、実際に起こった未解決連続殺人事件を、86年にそれについての本を出版したグレイスミスを登場させて描いてます。

 低音で響く銃声がかなり怖い、冒頭のアベック殺人場面からのゆるまずだれずの緊迫した筋運びや、暗くて濃密な映像も良いのですが、一番良いのは本も、DNA判定も、全てを逆手に取ったような映画の作り方でしょうか。

 未解決事件の真犯人探し映画で説得力を持たせるのは簡単で、反対証拠を何一つださなければ良いだけですが、観客が外に出て別の情報に触れたとたん、一気に興ざめするするのは避けられません。かといって、ドキュメンタリー仕立てでは娯楽としては成り立たないわけで、そこはどうなるんだろうと思っていたら、なるほどこう言うやり方がありましたか。
振り返ればなるほどと思う伏線が幾つもあって見終わって思わずにやにやしてしまいました。

 この映画は連続殺人犯探しの映画ではなくて、連続殺人の犯人探しに魅入られた何人もの人間達の映画と思って観たほうがいいと思います。本の著者、グレイスミスはなるほど主要な登場人物ですが、魅入られた人間のなかの一人に過ぎず、新聞記者のエイヴリー(ロバート・ダウニーJR)、サンフランシスコ市警のトースキー刑事(マーク・ラファロ)、アームストロング刑事(「ER」のアンソニー・エドワーズ)が、それぞれの視点で浮かんでは消える容疑者を追って、二時間半飽きませんでした。捜査側と容疑者がこれだけ出てくると、緩慢になりがちですが、それがなかったのが上手いです。

 のめり込んだ人間の視野の狭さを伏線にした面白さ(ボーンの家、筆跡鑑定など)は、さりげなくですが、沢山出ていて、そのあたりもうちょっと過激にやったらもっと衝撃だったかも。なんて謎解き部分の面白さが減ってしまうかもしれませんね。実際変な欲を出さずに娯楽映画に徹して作られていたから、面白かったんでしょうし。

 ただし、前に同じ監督の「パニックルーム」、映画館で観てフォレスト・ウィテカー良かった~と思ったのに、TVで観たらそれほどでもなかった前科が、私にはありますσ(^◇^;)


 ゾディアック事件が、米国でどんな受け止め方をされているのか見当もつかなかったので、帰ってから本や事件についてちょっとだけ調べてみました。
この事件については、なかなかマニアックなサイトがあるようです。
グレイスミスの本については、米国アマゾンのレビューを読んだ結果だけで結論づけて恐縮ですが、本の中で、多分に状況証拠だけである人物を犯人と明確に名指ししている様です。そして二匹目のどじょうかもしれませんが、続編Zodiac Unmaskedも書いて犯人の真の姿の暴露に勤めた模様で、こうなるとこの人もアブナイ人かもしれません。今は幸せに暮らしてらっしゃると映画にはあったので、アブナイ時期は脱したのでしょうか^_^;
 
 ゾディアック公式サイト(リンク
 ゾディアック事件についてのサイト(リンク
 アマゾンのZodiacのページ(リンク
面白ろ過ぎてつい信じてしまいそうだけれど、真実とはほど遠いと指摘したレビューがあります。
 ウィキペディアのZodiac Killer のページ(リンク)。かなり長文です。

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