オンデマンドみるみる記2 真田丸の秘密
前記事で「真田丸は言葉で説明している」と書いてしまったため、その根拠を書きたいと思います。とはいえ、オンデマでは半分観たところでタイムアウトになってしまいましたが(^_^;)
言葉で説明する役割の立役者は長澤まさみ演じる架空の人物「きり」でしょう。最初の頃ネットで「うるさい」と不評だったきりですが、この人物こそ、脚本家の冴えを見せる造型だと今なら思います。
脚本はきりのおしゃべりを借りて巧みに状況説明をするのです。
源治郎が誰を好きなのかとか、祝言の時に人を殺すなんて残酷だとか、一応誰でもそう思う事ではありますが(だからネットではうるさがられた)、ここだけは視聴者に押さえて欲しい部分を言葉で述べさせるので、一杯機嫌の視聴者であっても迷わず受け取る事が出来る仕掛けになっていました。しかも無用な失敗を犯して、人質を救出に来た主役・真田信繁に傷一つつけることなく、ちゃんと捕らえられる事に成功させます。これを不測の事態で救出作戦を失敗させたら「信繁って駄目なやつ」と思う人が必ず出ます。
おしゃべりなきりではありますが、豊臣秀次が登場すると彼女は途端に口数が少なくなり聞き役に回ります。源治郎の話だってまともに聞いた試しのない彼女が突然寡黙になるのは、相手が太閤の甥だからではなく(多分成長したわけでもなく)、秀次の言葉を引き出す役割になったからです。聴き手が出来たことで普通ならもっと遠回しで表現しなければならない秀次の胸の内を、視聴者に間違いようのない手段で伝える事ができます。ネットでは秀次うざいなどと言われてましたが、簡単に確実に視聴者に伝えるには本人の口から話させるのが一番かと思います。去年だったら私も拒否反応を起こしたと思いますが、今年入り組んだ筋立ての直虎を観た後なので、わかりやすさのありがたみも理解出来ます。
今回オンデマで続けて視聴したので判ったのですが、「真田丸」というのは滅びの美学をテーマにしているのだなと思いました。武田の滅亡シーンから物語が始まり、真田昌幸に謀られて磔にされる高坂昌元、沼田城の攻防でさえあまり顔を出さなかった北条氏政に至っては、豊臣の小田原城包囲で突然露出が多くなり、ほぼ出ずっぱりの2回分放送の後切腹になりました。真田家の人間が直接関わるエピソード以外は、滅んでいく者達に焦点が当てられていると言って良いと思います。
大阪城ではわざわざきりを聞き役にして秀次の胸の内を語らせ続けているので、27回以降は秀次の滅びが壮麗に描かれると思います。ちょっと楽しみなのでお正月にオンデマ契約して観てみたいと思います。
滅びの美学、その描き方は美しく哀しく重いのですが、あまり後に引きずらせない工夫もちゃんとしてあるんですね。北条氏政は戦のない平和な時代など嫌だと言って切腹するわけですが、敵の実力を(多分その出自から)見誤っての滅亡ではなく、やんちゃをいって満足の切腹にしてしまいました。不意打ちの恐怖から風呂にも入れず眠れもしない描写を上手く緩和して、重いんだけど引きずらずに済む書き方だったと思います。
滅び方ではありませんが、去年私が観たときに拒絶反応を起こしたシーンに、高畑淳子演じる薫が夫真田昌幸に向かって、人質だった木曽義昌の子らが磔にされた事を仰々しく述べるくだりがありました。当時私はあの戦国時代に人質処刑で騒ぐのはおかしいだろうと思ったのですが、今年の「直虎」で、屋敷に訪ねてきた兄である南溪和尚に、今川の人質となった佐名が「ようもようも顔を出せましたな」と吐き捨てるシーンを見せられ、殆ど書かれていないにも関わらず人質の哀しみがぐさっと胸に刺さって(その後の展開で佐名は夫婦で自刃させられますし)重苦しさに息の根を止められそうになった身としては、薫の軽さに救われる思いをしたのではありました。
映画や自分で選ぶネットテレビだと、一話の中にどれだけ話を詰め込んでも、観る方は喜んで咀嚼できますが、定時で流れるテレビ番組はあまり詰め込まれると困る場合もあるのかなと「直虎」と「真田丸」を見比べて思いました。今年「直虎」を観たからこそ判る「真田丸」の面白さだと思います。
みなさまも、時間があったら「真田丸」をもう一度観てくださいませ。
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